あの日、私は仕事帰りに一蘭へ入った。
金曜の夜。店内はほぼ満席だった。
例の仕切り席に座り、ようやく一息ついた私は、替え玉まで決め込む気満々でラーメンを待っていた。
周囲は静かだった。
すすり音だけが響く、あの独特の空気。
――その時だった。
コン、と隣の壁を軽く叩かれた。
見ると、仕切りの下から一枚の紙が差し込まれている。
私は反射的に手に取った。
そこには赤ペンで、
『声を出すなトイレに来い』
と書かれていた。
……は?
一瞬、意味が理解できなかった。
隣を見る。だが仕切りで顔は見えない。
ただ、チラッと見えた腕がゴツかった。
しかも無言。
いやいやいや。
怖すぎるだろ。
頭の中で一気に最悪の想像が広がった。
絡まれた? ヤバい宗教? 変態? 強盗? SNSのドッキリ?
心臓がバクバク鳴る。
しかも最悪なのが、ここ一蘭なんだよ。
店内ルールで会話ほぼ禁止。店員も奥。
助けを呼びづらい。
私は紙を握ったまま固まった。
すると隣の男が立ち上がった。
チラッと見えた。
黒いキャップ。デカい身体。ヒゲ。
完全に“怖いタイプ”だった。
男は何も言わず、トイレの方へ歩いていく。
去り際、もう一度だけ壁をトントン叩いた。
「来い」
そう言われた気がした。
いや無理だろ。
マジで怖い。
私はスマホを握った。
最悪、警察。
でも、まだ何もされてない。
周囲を見る。
みんな普通にラーメン食べてる。
この状況、私だけが異世界みたいだった。
その時。
後ろの席の女子高生っぽい二人が、こっちを見てヒソヒソ笑った。
さらに、向かいのサラリーマンまで妙に視線を逸らす。
……ん?
なんか変だ。
私はふと、椅子から少し腰を浮かせた。
その瞬間。
スースーした。
嫌な予感がした。
恐る恐るスマホのインカメを開き、背中を映す。
――終わった。
白シャツの背中が、盛大に裂けていた。
しかも下着どころか、肌まで見えている。
いや待て。
なんで!?
朝、急いで着替えた時か?カバン引っ掛けた?
分からない。
でも、店中の人が気付いてたんだ。
だから視線が……
死ぬ。
恥ずかしすぎて、一気に顔が熱くなった。
その時、また紙が差し込まれた。
『トイレ前に上着置いといた』
私はゆっくり席を立った。
周囲の視線が痛い。
トイレ前へ行くと、黒いパーカーが綺麗に畳まれて置いてあった。
隣の男が、少し離れた場所でスマホを見ている。
目が合った。
私は思わず頭を下げた。
すると男は、ものすごく気まずそうに言った。
「……すんません。普通に言うと、逆に恥ずかしいかなって」
低くて怖そうな声なのに、めちゃくちゃ申し訳なさそうだった。
私は完全に混乱した。
「え、いや……こっちこそすみません……」
「あと……店員呼ぶと、多分みんな気付くんで……」
その一言で、私は穴に入りたくなった。
この人、ずっと私が公開処刑されない方法を考えてくれてたのか。
しかも、一蘭の“静かな空気”壊さないように。
私はさっきまで、完全に犯罪者扱いしていた。
「声を出すな」も、脅しじゃなくて、
“周りに聞かれないように”
だったんだ。
もう恥ずかしくて、申し訳なくて、笑うしかなかった。
私はパーカーを借り、席に戻った。
するとさっきの女子高生たちが、小さく「よかったね」と笑った。
サラリーマンも、何事もなかったようにラーメンをすすっている。
誰も大騒ぎしない。
でも全員、たぶん気付いてた。
そして、みんな“見ないふり”をしてくれていた。
日本って、こういう空気あるよなと思った。
帰り際。
私は隣の男に、クリーニング代を渡そうとした。
でも男は首を振った。
「いや、俺も昔やったことあるんで」
私は吹き出した。
男は最後にこう言った。
「でも次から、トイレ来いはやめときます。完全に脅迫文なんで」
私は笑いながら店を出た。
……ちなみにその日以来、私は外出前、必ず背中チェックするようになった。
そして、見た目だけで人を判断するのも、少しやめようと思った。