正直、もう人を信用できなくなっていた。
私は地方で小さな民宿を営んでいる。
古い和室が3部屋だけ。夫婦で切り盛りしている、本当に小さな宿だ。
コロナを何とか乗り越えて、ようやく少しずつ客足が戻ってきた。
でも――問題も増えた。
布団は敷きっぱなし。
ゴミは分別なし。
食べ残し放置。
使ったタオルは濡れたまま畳の上。
ひどい時は、壁に飲み物をこぼしたまま黙って帰る人もいた。
「お客様だから」
そう自分に言い聞かせてきたけど、片付けをしながら、情けなくて泣きたくなる日もあった。
そんなGW初日。
若い男性2人組が宿泊に来た。
礼儀正しかったけど、正直あまり期待していなかった。
最近は、最初だけ感じが良くて、帰る頃には部屋が荒れている人も多いからだ。
翌朝。
私はいつものように、覚悟しながら部屋へ向かった。
襖を開けた瞬間――思わず足が止まった。
……え?
部屋が、綺麗すぎた。
布団は綺麗に畳まれ、テーブルは拭かれ、ゴミはまとめられていた。
しかも、使った食器まで端に揃えてある。
旅館で働いて長いけど、ここまで綺麗に使う人は、ほとんど見たことがなかった。
「すごいね……」
後ろから来た夫も、思わず声を漏らした。
するとテーブルの上に、1枚の紙が置いてあるのに気づいた。
手書きのメモだった。
『オーナーさん素敵なお宿ありがとうございました』
そこまでは普通だった。
でも次の一文で、私は完全にやられた。
『ネジが取れてしまいました。机の上に置いてあります。申し訳ありません』
……ネジ?
見ると、洗濯物を干すフックの小さな部品だった。
言われなければ、絶対に気づかないレベル。
しかも、壊したというより、たまたま緩んでいただけだった。
普通なら、黙って帰る。
いや、気づきもしない人の方が多い。
なのにその人は、わざわざ謝罪まで残していた。
さらに最後には、
『飛騨に遊びに来て、こんなに素敵な宿に泊まれて幸せでした。また機会があればぜひ来ます』
と書かれていた。
気づいたら、私は泣いていた。
夫に笑われた。
「大げさだなぁ」って。
でも、違うんだ。
最近ずっと、“人に疲れていた”。
マナーの悪い人。
偉そうな人。
口コミだけ一丁前の人。
そんな人ばかり見ていたから、もう接客が好きだった頃の気持ちを、忘れかけていた。
でも、たった一枚のメモで、全部救われた。
その日の夜。
私は、その手紙を捨てられなかった。
今でも事務所に置いてある。
嫌な客が来た時、クレームを言われた時、それを見る。
すると、「また頑張ろう」って思える。
後日。
そのお客様から、本当にまた予約が入った。
私は夫に言った。
「今度来たら、絶対サービスする」
すると夫が笑いながら言った。
「ネジ1本で、ここまで人の心動かせるんだな」
本当にそう思う。
高い宿に泊まることより、高級車に乗ることより、人としてちゃんとしてるって、一番難しい。
でも、だからこそ、こういう人を見ると救われる。
最近、“優しい人は損する”みたいな空気があるけど。
私はあの日、まだ日本も捨てたもんじゃないって思えた。