「はぁ……最悪だろ、これ」
仕事帰り、駐車場で自分の車を見た瞬間、思わず声が漏れた。
左後ろのバンパーに、白い擦り傷。しかも少し凹んでいる。
GW中で修理工場も混む。ただでさえ忙しいのに、余計なトラブルまで増えた。
私は周囲を見回した。
だが、ぶつけた車はもういない。
「また当て逃げかよ……」
そう思いながらため息をついた時だった。
ワイパーに白い紙が挟まっているのに気づいた。
──恐る恐る開く。
『大変申し訳ございません。車(左後方)をぶつけてしまいました。修理代の件でご連絡お願い致します』
電話番号付きだった。
私は一瞬、拍子抜けした。
正直、逃げられると思っていたからだ。
今どき、ちゃんと連絡先を残す人なんて珍しい。
……でも。
「めんどくせぇ……」
その言葉が先に出た。
修理。保険。連絡。見積もり。
全部面倒だった。
私は何となく傷の写真と置き手紙を撮り、軽い愚痴のつもりでSNSに投稿した。
『やられた。逃げられなくて良かったけど、めんどくさ』
その時は、みんなが「災難だったね」と共感してくれると思っていた。
だが。
通知は、予想外の方向で荒れ始めた。
『いや、ちゃんと連絡先残してるじゃん』『誠意ある人を晒す必要ある?』『逃げてないだけ立派』『被害者ムーブきつい』
私は眉をひそめた。
いや、被害者なのはこっちだろ。
車を傷つけられたんだぞ?
なのに、なぜか私が責められている。
さらに追い打ちのように、こんなコメントまで付いた。
『相手、“当てた後に戻って手紙書いた”って相当勇気いると思う』『普通は怖くて逃げる人多い』
そのコメントを見た瞬間、少しだけ胸がチクリとした。
……確かに。
逃げようと思えば逃げられたはずだ。
夜の駐車場。防犯カメラも微妙。誰も見ていない。
それでも、その人は戻ってきた。
わざわざ紙を書き、名前は書いてないが、自分から連絡先を残した。
そこまで考えた時、知らない番号から電話が鳴った。
「……もしもし」
『あ、あの……先ほどお車を擦ってしまった者です。本当に申し訳ありませんでした……』
電話口は、若い女性の声だった。
震えていた。
『子どもを乗せていて、焦ってしまって……本当にすみません……』
後ろでは、小さな子どもの泣き声まで聞こえる。
私は思わず黙った。
勝手に、“適当なやつ”を想像していた。
だが実際は、事故を起こした後、逃げずに戻り、震えながら電話してきた普通の母親だった。
『修理代は必ず払いますので……』
そこまで聞いた時、なぜか私はSNSの投稿画面を開いていた。
通知欄はさらに荒れている。
『晒すほどのこと?』『相手かわいそう』『これでSNSに上げられるの怖すぎる』
私はその画面を見ながら、急に恥ずかしくなった。
私は、“逃げなかった人”を、ネットに晒していたんだ。
数分後。
私は投稿を削除した。
翌週、相手と保険会社を交えて話した。
現れたのは、電話の通り、まだ幼い子どもを連れた女性だった。
席についた瞬間、彼女は深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした……」
保険会社の担当者が苦笑しながら言った。
「最近は、連絡先を残さず逃げるケースも多いので……ここまで誠実な方は珍しいですよ」
その瞬間。
私は、自分がどれだけ感情だけで動いていたか思い知らされた。
もし相手が逃げていたら、私は間違いなく怒っていた。
でも。
逃げずに責任を取ろうとした相手まで、“ネタ”としてSNSに上げてしまった。
修理代の話はすぐ終わった。
最後に女性は、また頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
私は初めて、素直にこう返した。
「……いえ。こちらこそ、すみませんでした」
彼女は少し驚いた顔をした後、小さく笑った。
帰り道。
修理予定の傷よりも、自分が軽い気持ちで投稿した数枚の写真の方が、ずっと格好悪かった気がした。
最近、何でもすぐ晒される。
失敗した人も、謝った人も、反省した人も。
でも本当は――
逃げなかった人を叩く社会より、ちゃんと謝れる人が報われる社会の方が、少しくらい優しくていいと思った。