新幹線のグリーン車に乗るとき、私はいつも少し安心する。
普通車より高い料金を払う分、静かで落ち着いた空間が守られている――そんなイメージがあるからだ。
その日も、仕事帰りに少し疲れていて、静かな車内でゆっくり過ごそうと思っていた。
席に座り、コートを掛け、スマホをしまい、ようやく一息ついたそのときだった。
前方から、やけに大きな声が聞こえてきた。
「Yeah bro! I told you already!」
振り向くと、通路を挟んだ数列前に外国人の男性が座っていた。
電話を耳に当て、周囲を気にする様子もなく大声で話している。
グリーン車で電話?
一瞬そう思ったが、まあすぐ終わるだろうと気にしないことにした。
ところが――
その男は通話をやめるどころか、さらに態度がエスカレートしていった。
椅子をゆっくり、そして遠慮なく――
フルリクライニング。
背もたれが思いきり倒れる。
それだけでも十分目立つのに、次の瞬間、私は思わず目を疑った。
男は靴を履いたまま足を上げ、
前の座席の背もたれの上にドンと乗せたのだ。
黒いスニーカーの裏が、前の席の布地に押しつけられている。
「……マジか」
思わず小さく呟いた。
ただ、その時点ではまだどこか他人事だった。
「まあ、近くじゃなければいいか」
そう思って、自分の席の番号をもう一度確認した。
そして――
次の瞬間、背中が冷たくなった。
その男の真後ろが、私の席だった。
「……嘘だろ」
前の背もたれは完全に倒されていて、
ただでさえ狭い空間がさらに圧迫されている。
しかもその上、目の前には靴の裏。
さらに電話の声は止まらない。
「No no, listen! Listen!」
グリーン車の静かな空間に、英語の大声が響き続けていた。
周囲の乗客もちらちらと視線を送っている。
だが――
誰も何も言わない。
私はしばらく我慢していた。
日本ではよくある光景だ。
みんな迷惑だと思っていても、直接注意する人は少ない。
でも、数分経っても状況は変わらない。
むしろ声はさらに大きくなっている。
前の席の人も、明らかに困っている様子だった。
私は深く息を吐いて、ついに口を開いた。
「すみません」
男は振り向いた。
「ここ、新幹線なので……電話はちょっと控えてもらえますか?」
できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
しかし男は眉をひそめ、肩をすくめただけだった。
「Just a minute」
そう言って、また電話に戻る。
そして――
何も変わらない。
声も、足も、リクライニングも、そのままだ。
私は思わず苦笑した。
「ああ、そういうタイプか」
周囲の空気も少しピリついてきた。
するとその時だった。
前の席に座っていた男性が、ゆっくり振り向いた。
40代くらいの会社員風の人だ。
彼は外国人の足を一度見て、それから静かに言った。
「靴、座席に乗せるのはやめてもらえますか?」
男は電話を耳に当てたまま、面倒くさそうに答えた。
「Why?」
その瞬間、車内の空気が少し凍った。
前の席の男性は、数秒だけ黙った。
そして――
自分のリクライニングレバーを引いた。
ガタン。
椅子が一気に倒れる。
その結果、後ろにいた外国人の足が押し返される形になった。
男は驚いて足を引っ込めた。
「Hey!」
前の男性は振り向き、静かに言った。
「あなたがルールを守れば、私は戻します」
その声は決して大きくなかった。
でも、はっきりとした口調だった。
男は一瞬黙った。
電話の向こうから声が聞こえる。
「Hello? Hello?」
数秒の沈黙。
そして――
男は舌打ちのような音を出して、電話を切った。
靴を床に下ろす。
前の席から足も消えた。
車内は一気に静かになった。
前の男性は、ゆっくりと椅子を元に戻した。
それからこちらに少しだけ振り向き、苦笑した。
「最近、増えましたね」
私は思わず頷いた。
「ほんとですね……」
グリーン車は再び静かな空間に戻っていた。
ただ、私はふと思った。
日本は礼儀正しい国だと言われる。
でもそれは、
誰かが守ろうとしているから成り立っているんじゃないか。
そう思いながら、私は窓の外を流れる景色を眺めていた。