「遅刻は遅刻です。どんな理由でも参加できません」
手に握っていた遅延証明書を見せても、スタッフはそう言い切った。
その日、私は保育士資格に関わる大切な講座を受ける予定だった。
何カ月も前から申し込み、仕事の休みも調整し、前日の夜には持ち物を何度も確認した。
この講座を受ければ、夢に一歩近づける。
そう思って、朝から少し緊張しながら家を出た。
ところが、駅に着いた瞬間、ホームの空気がおかしかった。
人身事故。
電車は止まり、改札前には人があふれていた。
私はすぐに別ルートを調べ、駅員さんに確認し、動いている路線まで走った。
途中でタクシーにも乗った。
料金は高かったけれど、そんなことを言っている場合ではなかった。
とにかく会場に着かなければ。
講座開始時間が近づくたびに、胸が苦しくなった。
スマホの時計を見るたび、手汗が止まらなかった。
ようやく会場に着いた時には、開始から十数分が過ぎていた。
私は息を切らしながら受付へ向かった。
「すみません。人身事故で電車が止まってしまって、遅れました。遅延証明書もあります」
そう言って、手に持っていた証明書を差し出した。
でもスタッフは、それをちらっと見ただけだった。
「規則ですので、遅刻された方は参加できません」
私は一瞬、言葉を失った。
「寝坊したわけではありません。公共交通機関の事故です。証明書もあります」
するとスタッフは、表情を変えずに言った。
「皆さん同じ条件ですので」
その言葉が、いちばん悔しかった。
同じ条件。
本当にそうだろうか。
事故で電車が止まり、走って、タクシーに乗って、証明書まで取って、それでも同じなのか。
私はその場で怒鳴りたくなった。
泣きたくもなった。
でも、そこで感情的になったら、ただの「面倒な受講者」で終わってしまう。
私は深呼吸して聞いた。
「では、補講や振替、次回への変更はありますか?」
スタッフはすぐに答えた。
「ありません。規則です」
またその言葉だった。
規則。
まるで、それを言えばすべて終わる魔法の言葉みたいだった。
私は会場を出た。
駅まで戻る途中、悔しさで足が震えていた。
でも、そこで終わらせるつもりはなかった。
帰宅してすぐ、私は証拠を全部並べた。
遅延証明書。
タクシーの領収書。
交通系ICの利用履歴。
会場に到着した時刻。
スタッフに言われた内容。
時系列でまとめ、主催者と研修機関にメールを送った。
件名は、わざと短く、はっきり書いた。
「不可抗力による交通遅延に対し、補救措置がない件について」
本文には、感情ではなく事実だけを書いた。
人身事故があったこと。
複数の移動手段を使ったこと。
遅延証明書を提出したこと。
それでも入場を拒否され、振替も補講もないと言われたこと。
そして最後にこう書いた。
「貴社は、公共交通機関の事故による遅延を、無断遅刻と同じ扱いにするという認識でよろしいでしょうか」
最初に返ってきたのは、よくある定型文だった。
「規則に基づいて対応しております」
私はそこで引かなかった。
すぐに返信した。
「規則のどの条項に、交通機関の事故による遅延も無断遅刻と同様に扱うと明記されていますか」
「また、証明書がある場合でも補講・振替を一切認めない理由を、書面でご回答ください」
そのメールを送った翌日、知らない番号から電話が来た。
主催者側の責任者だった。
声のトーンは、最初のスタッフとはまったく違っていた。
「このたびは、現場での対応が少し機械的すぎました」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく息ができた気がした。
責任者は続けた。
「交通機関の事故が確認でき、証明書と領収書もありますので、次回講座への優先振替を手配いたします。再申し込み手数料も不要です」
私は静かに答えた。
「私は特別扱いを求めているわけではありません。ただ、証明できる不可抗力まで“規則”の一言で切り捨てるのは違うと思います」
電話の向こうで、少し間があった。
そして責任者は言った。
「おっしゃる通りです。現場スタッフにも再度共有します」
数日後、正式な案内メールが届いた。
次回講座の優先枠。
追加費用なし。
さらに、交通遅延時の対応について、今後は現場判断だけで拒否せず、必ず本部確認を入れると書かれていた。
私はそのメールを見て、やっと笑えた。
あの日、会場の前で泣きそうになっていた自分に言いたい。
あそこで終わりじゃなかったよ。
あなたは追い返されたんじゃない。
次に同じ思いをする人のために、扉の開け方を残したんだよ。
規則は大事だと思う。
でも、規則は人を守るためにあるべきで、人を切り捨てるための盾ではない。
私は得をしたかったわけじゃない。
ただ、努力した人が、不可抗力まで自己責任にされるのが悔しかった。
だから証拠を残した。
言葉を選んだ。
感情ではなく、事実で返した。
そして最後に、冷たい「規則」を動かした。
人は生きている。
制度にも、少しくらい温度があっていい。