電車に乗った瞬間、今日は静かに帰れそうだと思った。
昼過ぎの車内は驚くほど空いていて、向かいの座席も、少し離れた二人掛けも、ほとんど誰も座っていなかった。
私は二人掛けの窓側に座り、膝の上にバッグを置いて、ようやく一息ついた。
仕事で疲れていたし、誰にも邪魔されずに少しだけぼーっとしたかった。
ところが、次の駅で乗ってきた男の人が、なぜかまっすぐ私の方へ歩いてきた。
他にも席は山ほど空いている。
なのに、その人は当然みたいな顔で、私の隣に腰を下ろした。
その時点で、少し嫌な感じはした。
でも、ただ座っただけなら何も言えない。
私は少し体を窓側に寄せて、スマホを見るふりをした。
すると、その人は座った直後からリュックをガサガサ漁り始めた。
チャックを何度も開け閉めする音。
ビニール袋の音。
鍵なのか、小銭なのか、硬いものがぶつかる音。
それがずっと私の耳元で続いた。
しかも、リュックを探るたびに肘がこちらへ当たる。
一度目は我慢した。
二度目も、たまたまだと思おうとした。
でも三度目に、はっきり私の腕に当たった。
それでも相手は、謝るどころかこちらを見もしなかった。
私は少しだけ体を引いた。
すると今度は、さらにリュックを大きく広げた。
まるで、私が避けるのを当然だと思っているみたいだった。
その瞬間、胸の中で何かが冷たくなった。
この人は席がないから隣に来たんじゃない。
空間の取り方を、最初から考えていない人なんだ。
いや、もしかしたら考えているのかもしれない。
「相手が避ければいい」と。
私は立ち上がった。
何も言わず、対面の一列まるごと空いている席へ移動した。
すると、その人が顔を上げて、少し不満そうにこちらを見た。
まるで私が失礼なことをしたみたいな顔だった。
私はその視線を無視して、座り直した。
そしてスマホを出し、車内の空席状況が分かるように写真を撮った。
もちろん、その人の顔は撮らない。
ただ、どれだけ席が空いていたか。
それなのに、わざわざ隣に座られたことが分かるように。
そこから一駅分、私はずっと落ち着かなかった。
移動したのに、なぜか相手の視線が気になる。
「自分が気にしすぎなのかな」
そんな考えも一瞬よぎった。
でも、すぐに消した。
気にしすぎじゃない。
嫌だと感じたなら、それが答えだ。
次の駅に着いた時、私は立ち上がった。
すると、その人も同じタイミングで立った。
背中にぞわっとしたものが走った。
偶然かもしれない。
でも、もう偶然だと思って流す必要はないと思った。
ホームに降りた私は、そのまま改札の方ではなく、駅員さんのいる場所へ向かった。
男の人は少し離れたところで、まだこちらを見ていた。
私は駅員さんに、できるだけ落ち着いて話した。
「車内がかなり空いているのに、わざわざ隣に座られて、リュックを広げたり肘を何度も当てられたりしました」
「席を移動した後も視線が気になって、不安だったので相談したいです」
駅員さんはすぐに真剣な顔になった。
「お怪我はありませんか?」
その一言で、少し肩の力が抜けた。
大げさだと言われなかった。
気にしすぎだと笑われなかった。
駅員さんが周囲を確認すると、例の男の人は急に目をそらした。
さっきまでの強気な態度が、嘘みたいに消えていた。
駅員さんが声をかけると、彼は慌てて言った。
「いや、ただ座っただけです」
私はスマホの画面を見せた。
「このくらい空いていました」
「その状態で、何度も身体が当たりました」
男の人は黙った。
駅員さんは落ち着いた声で言った。
「空席が多い状況で、他のお客様が不安に感じる距離の取り方は避けてください」
その人は小さくうなずいた。
さっき私を睨んでいた時の勢いは、もうどこにもなかった。
私は次の電車を待つことにした。
ホームに入ってきた次の車両も、やっぱり空いていた。
私は今度、広い座席の端に座った。
隣には誰もいない。
ただそれだけのことなのに、やっと呼吸が戻った気がした。
あの時、黙って我慢していたら、きっと私はずっとモヤモヤしたままだったと思う。
でも、避けるだけで終わらせなかった。
ちゃんと「不安でした」と伝えた。
それだけで、相手の態度も、その場の空気も変わった。
電車の席は、早い者勝ちかもしれない。
でも、相手の距離感まで勝手に奪っていいわけじゃない。
空いている車内で、わざわざ人の隣に座り、肘を当て、荷物を広げる。
それを「ただ座っただけ」で済ませる人には、ちゃんと線を引いていい。
私はもう、誰かの無神経さのために、自分だけが我慢するつもりはない。