お客様から電話が来た瞬間、私はいつものように明るい声で出ました。
「お世話になっております」
すると相手は、少し困ったような声で言いました。
「すみません、確認なんですが……身分証明書のところにある“うんこ”というのは、何の書類でしょうか?」
一瞬、時間が止まりました。
私は意味が分からず、画面を見直しました。
そこには、私が送った契約当日の案内が残っていました。
契約日時。
場所。
持ち物。
印鑑。
住民票。
現金一万円。
そして最後に――
「身分証明書(うんこ)」
私は本気で椅子から落ちそうになりました。
本当は「身分証明書(運転免許証)」と書くつもりでした。
それがなぜか、とんでもない単語になっていたのです。
お客様はもう既読。
しかも、丁寧に「承知しました」と返信までしてくださっていました。
私は顔から火が出るような思いで、すぐに謝りました。
「大変申し訳ございません。完全な入力ミスです。正しくは身分証明書、運転免許証でございます」
電話を切った瞬間、隣の同僚が肩を震わせていました。
必死に笑いをこらえているのが分かりました。
その数秒後、上司が冷たい声で言いました。
「何やってるの?これ、お客様に失礼すぎるでしょ」
もちろん、その通りです。
私の確認不足でした。
でも、その案内文は会社でずっと使っていた契約案内テンプレートでした。
私は日付と時間だけを直して送るように言われていたのです。
それでも、送ったのは私です。
だから私は言い訳しませんでした。
ただ、その場で深く息を吸って、もう一度テンプレート全体を確認しました。
すると、出るわ出るわ。
契約日の曜日が違う。
印紙代の記載が古い。
住民票について「何か月以内のものか」が書かれていない。
場所の表記も以前の事務所名のまま。
つまり、私の誤字は最低でしたが、そもそものテンプレートにも問題がいくつも残っていたのです。
私はすぐに修正版を作りました。
契約日時。
場所。
持ち物。
印鑑。
住民票の条件。
印紙代。
身分証明書。
全部、箇条書きで分かりやすく整理しました。
そしてお客様へ、改めて正式な案内を送りました。
「先ほどは大変失礼いたしました。混乱を招かないよう、下記の通り改めて整理いたします」
送信後、私はしばらくスマホを見つめていました。
もう怒られても仕方ない。
そう思っていました。
ところが数分後、お客様から返信が来ました。
「ご丁寧にありがとうございます。修正版の方がとても分かりやすいです。当日はよろしくお願いいたします」
私はその場で力が抜けました。
契約は無事に進むことになりました。
しかし、上司はまだ不満そうでした。
「でもさ、そもそもそんなミスをするのが問題なんだよ」
その時、社長が部屋に入ってきました。
事情を聞いた社長は、私の修正版と元のテンプレートを見比べました。
そして、静かに上司へ言いました。
「このテンプレート、誰が作ったの?」
部屋が一瞬で静かになりました。
上司の表情が固まりました。
そのテンプレートを作ったのは、上司本人だったからです。
社長はさらに続けました。
「誤字は当然ダメ。でも、古い情報をそのまま使わせていたのも問題だよね」
誰も何も言えませんでした。
私は内心、少しだけスッとしました。
もちろん、私のミスは消えません。
でも、全部を私一人の責任にして終わらせる話でもなかったのです。
その後、契約案内のテンプレートは私が作り直すことになりました。
送信前のチェック項目も追加されました。
日付。
曜日。
場所。
金額。
持ち物。
身分証明書。
この六つは、必ず二人で確認するルールになりました。
契約当日、お客様は笑いながら言いました。
「あの件、逆に忘れられない案内になりました。でも対応が早かったので安心しました」
私は深く頭を下げました。
恥ずかしすぎるミスでした。
できれば一生思い出したくないレベルです。
でも、あの一件がなければ、古いテンプレートのまま、いつかもっと大きなトラブルになっていたかもしれません。
私はその日、ひとつ学びました。
ミスした時に大事なのは、隠すことでも、言い訳することでもありません。
すぐ謝る。
すぐ直す。
そして、同じミスが起きない仕組みまで作ること。
最悪の誤字で社内は凍りました。
でも最後に凍ったのは、私を責めていた上司の方でした。