「この傷、前からありましたよ。気にしなくていいです」
黒いベンツSクラスの持ち主は、そう言って笑った。
イオンの駐車場で、私がバックした瞬間だった。
ゴン、と鈍い音がして、心臓が止まりそうになった。
慌てて車を降りると、隣に停まっていた黒いベンツのバンパーに、はっきり分かる擦り傷がついていた。
しかもナンバーは「8888」。
見た瞬間、血の気が引いた。
逃げるなんて考えもしなかった。
私はその場に車を止め、持ち主が戻ってくるまで十数分待った。
やがて現れたのは、五十代くらいの落ち着いた男性だった。
私はすぐに頭を下げた。
「すみません。今、私がぶつけてしまいました」
すると男性は傷をちらっと見て、驚くほど穏やかな声で言った。
「これは前からあった傷ですよ」
私は耳を疑った。
「いえ、今ぶつけました。私です」
けれど男性は手を軽く振った。
「いいんです。気にしなくて」
その瞬間、私は本気で救われたと思った。
高級車なのに、怒鳴りもしない。
連絡先も聞かない。
警察も呼ばない。
なんて余裕のある人なんだろうと、少し感動すらしていた。
ところが三日後、知らない番号から電話がかかってきた。
「メルセデス・ベンツ正規ディーラーです」
その一言で、胸がざわついた。
「先日の接触の件で、修理見積もりが出ました」
金額を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
「三十八万円です」
三十八万円。
軽い擦り傷だと思っていたものが、センサー調整、塗装、部品交換で、私の生活を直撃する金額になっていた。
私はすぐに持ち主へ電話した。
「あの時、前からあった傷だとおっしゃいましたよね?」
男性は少しも慌てなかった。
「その場で揉めたくなかっただけです」
私は言葉を失った。
「でも、修理は必要ですから」
その冷静な声で、ようやく分かった。
あれは優しさじゃなかった。
ただ、その場で時間を使いたくなかっただけだった。
私は悔しくて、手が震えた。
でも、すぐに支払うとは言わなかった。
その夜、私は行車記録を確認した。
すると、事故直後の音声がはっきり残っていた。
「これは前からあった傷ですよ」
「気にしなくていいです」
私は何度も聞き直した。
間違いなく、相手本人の声だった。
翌日、私はその映像と音声を警察と保険会社へ提出した。
さらに、事故直後に私がその場で待っていたこと、逃げずに申告したこと、相手が現場で新しい傷ではないと発言したことを、時系列でまとめた。
数日後、保険会社から連絡が来た。
「現場で相手方が旧傷と発言している以上、全額をそのまま認めるのは難しいです」
その一言で、張りつめていた息がようやく抜けた。
最終的に、三十八万円の請求はそのまま通らなかった。
私が負担することになったのは、必要と認められた一部だけだった。
男性から、その後の連絡はなかった。
あれほど淡々と「修理は修理」と言っていた人が、証拠を出した途端、何も言えなくなった。
私はその時、はっきり思った。
高級車に乗っているから正しいわけじゃない。
落ち着いた口調だから誠実なわけでもない。
その場で「いい人」に見えた相手ほど、あとから別の顔を見せることがある。
でも、こちらも泣き寝入りする必要はない。
声を荒げなくていい。
相手を責め立てなくていい。
ただ、事実を残す。
証拠を出す。
それだけで、状況はひっくり返る。
あの日の私に言いたい。
「助かった」と思うのは早かった。
本当に助けてくれたのは、あの男性じゃない。
静かに全部を録っていた、行車記録だった。