夜中、また赤ちゃんが泣いた。
私はその瞬間、心臓がギュッと縮むのを感じた。
(ああ、まただ……)
シングルマザーの私にとって、夜はいつも“戦い”だった。
赤ちゃんの泣き声。それを止められない自分。そして何より怖いのは——隣の存在。
「若いし、車もブンブンうるさいタイプだし…」「絶対、限界きたら苦情くるよね」
何度もそう思った。
壁に耳を当ててしまう自分が嫌だった。どこかでドアが強く閉まる音がするたび、ビクッとした。
(もうすぐ怒鳴られるかもしれない)
そんな“最悪の想像”ばかりしていた。
ある日。
いつものように寝不足のまま玄関を開けたときだった。
ポストに、白い紙が一枚入っていた。
手紙。
嫌な予感しかしなかった。
(やっぱり来たか…)
震える手で開いた。
そこに書かれていたのは——
「赤ちゃんの泣き声、全然気にしないでください」
一瞬、意味が理解できなかった。
え?
クレームじゃないの?
続きがあるんじゃないの?
でも何度読んでも、その一文だけだった。
そこから先は、ただの手書きの文字。
「夜遅くに大変ですよね」「無理しないでくださいね」
気づいたら、涙が出ていた。
止まらなかった。
怖かったのは“隣人”じゃなかった。勝手に怯えていたのは、私の方だった。
その日から少しずつ、世界の見え方が変わった。
夜泣きの声を聞いても、もう体が固まらない。ポストを見るときの手の震えもなくなった。
代わりに残っていたのは——「大丈夫かもしれない」という、小さな安心だった。
後日、思い切って手紙の主に会った。
隣の部屋から出てきたのは、想像していた“怖い若い男”じゃなかった。
少し眠そうで、普通の若い女性だった。
私と同じくらい疲れた顔をしていた。
彼女は軽く笑って言った。
「夜泣き、うちも昔あったんで」
その一言で、全部つながった気がした。
私はその瞬間、強く思った。
“迷惑をかけないように生きる”ことばかり考えていたけど、本当は違うのかもしれない。
誰かに少し助けてもらって、その代わりに誰かを少し助ける。
それでいいのかもしれない。
今の私の小さな目標は一つ。
あの日の彼女みたいに、誰かの不安を少しだけ軽くできる人になること。
もしまた夜泣きで眠れない夜が来ても、私はもう一人で怖がらない。
ポストの中には、まだあの手紙の温度が残っている気がするから。