週末の午後、マンションの廊下を歩いていた私は、掲示板の前で足を止めた。
そこに一枚の紙が貼られていた。
最初は管理会社からのお知らせかと思った。
でも、近づいて読んだ瞬間、胸の奥がざわついた。
「毎晩のように高田さんの奥さんの喘ぎ声が聞こえてきて、安眠を妨げられています」
思わず二度見した。
いや、待って。
これ、掲示板に貼る内容?
しかも、部屋番号こそ書かれていないものの、「高田さん」と名指しに近い形で書かれている。
さらに下には、
「今後も聞こえてくるようなら、証拠として録音しておりますので、お聞かせしますよ」
とまで書かれていた。
その文面を見た瞬間、私は背筋が冷たくなった。
苦情を言いたい気持ちは分からなくもない。
集合住宅で音の問題はある。
生活音で眠れない人もいるだろう。
でも、これは違う。
注意喚起ではなく、公開処刑だった。
通りかかった住人たちも、その紙を見て小声で話していた。
「高田さんって、あの人?」
「ちょっと気まずいよね」
「でも本当なら迷惑だよね」
その言葉を聞いて、私は胸が嫌な感じに締めつけられた。
私は高田さんと何度か挨拶をしたことがある。
物静かで、いつも丁寧な人だった。
奥さんのことはよく知らない。
けれど、こんな貼り紙で一方的に晒されるほどのことなのか。
それに、もし内容が本当だったとしても、名前を出して廊下に貼るのはやりすぎだ。
もし誤解だったら?
もし別の部屋の音だったら?
もし高田さんが、何も知らないまま住人たちに噂されていたら?
そう思うと、私は見過ごせなかった。
私はまず、その貼り紙を写真に撮った。
貼られていた場所。
内容。
日時。
全部残した。
その上で、管理会社に電話した。
「掲示板に、特定の住人を名指しするような貼り紙がされています。内容もかなり個人的です。これは管理会社として把握していますか?」
担当者は驚いた声を出した。
「そのような掲示は許可していません」
やっぱり。
管理会社の正式な掲示ではなかった。
誰かが勝手に貼ったものだった。
私は続けた。
「騒音の相談なら正式な手順で対応すべきだと思います。ですが、この貼り紙は住人の名誉を傷つける可能性があります。すぐ確認してください」
電話を切ったあと、私は少し迷った。
高田さんに伝えるべきか。
知らない方がいいのか。
でも、もし私が当事者だったら、知らないところでこんな紙を貼られていたら耐えられない。
そう思って、私は高田さんの部屋を訪ねた。
インターホンを押すと、しばらくして高田さんが出てきた。
いつものように穏やかな顔だった。
私はできるだけ落ち着いて言った。
「すみません。掲示板に、高田さんのお名前を思わせる貼り紙がありました」
高田さんの表情が、一瞬で固まった。
「え?」
私は写真を見せた。
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