朝の新幹線、座席に落ち着いた瞬間から、なんとなく違和感があった。
私の前の通路に、青いベビーカーが堂々とはみ出している。しかも、赤ちゃんはまだ寝ているのか、静かに小さな吐息だけが聞こえる。
一瞬、「いや、これ危なくない?」と目を疑った。通路は非常時の避難動線だ。もし緊急事態が起きたら、このベビーカーが障害物になる。私は自然と息をひそめ、少し後ずさりした。
車掌さんが通りかかったが、何も言わず素通りした。
私は思わず舌打ちしそうになった。
「え……何それ。注意できないの?」
心の中で怒りがむくむくと湧き上がる。赤ちゃんを守るためでも、自分の身を守るためでも、危険は危険だ。
周囲の乗客は見て見ぬふり。皆、スマホを見ているか、眠そうに目を閉じている。誰も声を上げない。
それどころか、後ろのサラリーマンがベビーカーの横を通り抜けるときに、「あ、まあいいか」と小さく呟いたのが聞こえた。
その一言で、私の怒りはさらに膨れ上がった。
私は立ち上がろうか迷った。
「注意したほうがいいのか、やめたほうがいいのか」
心拍が速くなる。頭の中で、もし赤ちゃんが倒れたら、私がこの場でどう責任を取るのかまで想像してしまった。恐怖と焦りが交錯する。
でも、私は黙っていられなかった。
「すみません、そのベビーカー、少し通路側に寄せてもらえませんか?」
声は震えたが、精一杯大きくした。
赤ちゃんを抱えた母親は振り向くことなく、ちらりと私を見て、「はい」とだけ答え、再びスマホに視線を落とした。
その瞬間、心の中で火がついた。
「何なの?その態度。危ないのわかんないの?新幹線で通路ふさいで平気なの?」
怒りで顔が熱くなる。周囲の乗客は無反応。車掌は無反応。
孤立感と憤りが、私の胸を締め付ける。
私はさらに一歩前に出て、強めに言った。
「通路は避難動線です!安全のために、ベビーカーを寄せてください!」
母親はようやく顔を上げ、私を見た。目が泳ぐ。
「あ……わかりました」
言い方は淡々としているが、明らかに私の怒りが伝わったのか、少しだけ肩を動かしてベビーカーを寄せた。
通路が少しだけ空いた。
それだけで、心の中の嵐が少し収まる。
私は深く息を吸い込み、座席に戻る。
まだ胸の中には怒りの余韻があるけれど、少なくとも赤ちゃんも、避難経路も安全になったのだ。
その後、車掌さんが通りかかり、私に小声で「ありがとうございます」とだけ言った。
私は一瞬驚いた。普段、素通りしかしない人が、やっと一言認めてくれた。
なんだか胸の中の圧迫感が、ふっと抜けたような気がした。
結局、私の立ち上がりと声が、状況を変えたのだ。
誰も言わないから、危険も見過ごされる。
でも、一人でも声を上げれば、確実に空気は変わる。
私はその日、新幹線の通路を歩きながら、小さく笑った。
「怒りも無駄じゃなかった」
心の中で、自分の行動を誇らしく思った。
次にまた通路に障害物があったら、私は迷わず声を上げるだろう。
だって、安全と安心は、誰かが立ち上がらないと守れないから。