東京で一人暮らしを始めた頃、実家の母から荷物が届いた。
段ボールを玄関に置いた瞬間、私は一瞬固まった。
……デカい。
しかも、ただの段ボールじゃない。
ガムテープで何重にも補強され、表にはマジックで大きくこう書かれていた。
「佐川様へ ドアの前に置いてください」
……まあ、ここまでは普通だ。
問題はその下だった。
「うんち泥棒ダメ」「うんこ泥棒ダメ」「くそり泥」
いや、待って。
何を送ってきたの、この人。
しかも意味はよく分からないけど、とにかく“強い圧”だけは伝わってくる。
正直、最初は思った。
「いや、これ絶対変な人だと思われるやつじゃん」
近所に見られたら恥ずかしいし、置き配業者にも変な印象を持たれる。
だから一瞬、剥がそうかとも思った。
でも母に電話すると、返ってきたのはかなり真剣な声だった。
「それ、剥がしたらダメだから」
「なんで?」
「盗まれるから」
……いや、そんなことある?
私は東京に住んでまだ間もなかったし、正直そこまで実感がなかった。
でも母は続けた。
「こっちは本気でやってるから」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
それでも当時の私は半信半疑だった。
数週間後。
その意味を知ることになる。
ある日、帰宅すると、隣の部屋の前に置かれていた段ボールが消えていた。
次の日も消えていた。
さらに別の日も。
……あれ?
そして気づいた。
「普通に盗まれてる」
東京の置き配、思っていたよりずっと無防備だった。
その瞬間、私は初めて母の箱を思い出した。
あの意味不明な言葉。
あの圧倒的な手書き。
「これ、もしかして……正解なのか?」
それから数日後。
今度は私の部屋の前にも“事件”が起きた。
母の箱の横に置いてあった別の荷物が、なくなっていた。
でも、母の箱だけは残っていた。
そのまま。
一切、触られずに。
私はその光景を見て、しばらく動けなかった。
「え……これ、ガチで効いてるやつ?」
さらに驚いたのは、その後だった。
隣の部屋の住人が、私のところに来た。
「すみません、その箱って……何書いてるんですか?」
私は少し恥ずかしさを感じながら説明した。
すると彼は少し黙ってから言った。
「うちも真似していいですか」
……え?
それから数日後。
このマンションの廊下に、少しずつ“謎の箱”が増え始めた。
「盗むな」
「触るな」
「天罰」
「中身見たら終わり」
統一感ゼロ。
でも誰も盗まない。
誰も触らない。
むしろ空気が変わった。
“ここは危ないかもしれない場所”という認識だけが広がっていった。
そして私はようやく理解した。
母はセンスがあるわけじゃない。
むしろ字は雑だし、言葉もかなり強引だ。
でも一つだけ確実に正しかった。
「盗む側は、少しでも“面倒そう”と思ったらやめる」
それだけ。
今ではもう、私はあの箱を恥ずかしいと思っていない。
むしろ安心している。
そしてたまに思う。
あれを考えた母の頭の中、一体どうなってるんだろうと。
ある日、母に聞いてみた。
「なんであんなこと書いたの?」
母は少しだけ笑ってこう言った。
「だって、普通に書いたら持っていかれるじゃん」
……いや、それだけ?
でも不思議と納得してしまった。
そして今日も、東京の玄関前にはあの箱が置かれている。
誰も触れない箱。
誰も盗まない箱。
そして私は知っている。
一番強い防犯は、防犯カメラでも鍵でもない。
“めんどくさそうな空気”なのかもしれない、と。