退職届を出す前に、同僚たちに笑いものにされた。
その日、私は朝からずっと変に落ち着いていた。
もうこの会社を辞める。
そう決めてから、胸の奥にあった重たいものが少しだけ軽くなっていた。
雑用を押しつけられる日々も、誰かのミスの尻ぬぐいも、意味のない残業も、もうすぐ終わる。
最後くらいは静かに、きちんと終わらせよう。
そう思って、私は退職届を封筒に入れ、机の上に置いた。
上司に提出する前に、少しだけ席を外した。
たった数分だった。
戻ってきた瞬間、私は足を止めた。
机の上に置いてあった封筒が、別物みたいになっていた。
大きな文字で、意味の分からない落書き。
「日本仕込」
「もちもちおいしい日本の食パン」
「退職届」
数字まで囲まれていて、まるでふざけた商品パッケージみたいだった。
一瞬、頭が追いつかなかった。
でも、周りのニヤニヤした顔を見た瞬間、すぐに分かった。
やられたんだ。
私の退職届を、勝手にいじられたんだ。
「え、何これ?」
私がそう言うと、同僚の一人が笑いながら言った。
「どうせ辞めるんだし、いいじゃん」
別の人も続けた。
「最後の思い出になるでしょ」
「ウケると思って」
その瞬間、胸の奥が一気に冷たくなった。
怒りで手が震えた。
でも、同時に妙に納得してしまった。
ああ、この会社は最後までこうなんだ。
私はずっと、この職場で“怒らない人”として扱われてきた。
面倒な雑務は私。
誰かがやり残した仕事も私。
急な確認も私。
失敗した人のフォローも私。
「ごめん、これお願い」
「ついでにできる?」
「あなたなら分かるよね」
そんな言葉で、何度も何度も仕事を押しつけられてきた。
断れば空気が悪くなる。
文句を言えば面倒な人扱いされる。
だから私は、できるだけ笑って流してきた。
でも、それが間違いだった。
私の我慢は、相手にとっては感謝の対象じゃなかった。
“この人には何をしても大丈夫”
そう思わせる許可証になっていた。
そして最後の最後に、退職届までおもちゃにされた。
普通なら、書き直すのが正解なのかもしれない。
きれいな封筒に入れ直して、何もなかった顔で上司に出す。
揉め事を避けるなら、それが一番大人の対応なのかもしれない。
でも、その時の私はもう無理だった。
なぜ私だけが、最後までちゃんとしなきゃいけないの?
なぜ私だけが、笑って流して、きれいに整えて、何もなかったことにしなきゃいけないの?
人の退職届に落書きして笑ったのは、あの人たちだ。
それを止めなかったのも、あの人たちだ。
私は悪くない。
そう思った瞬間、気持ちがすっと決まった。
書き直さない。
隠さない。
このまま出す。
私は落書きだらけの封筒を手に取った。
周りがざわついた。
「え、まさかそのまま出すの?」
「いや、それはヤバいって」
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