グリーン車に乗った瞬間、私はやっと肩の力を抜いた。
出張続きで寝不足だったし、車内では少しだけでも静かに休みたかった。
普通車ではなく、わざわざグリーン車を選んだのもそのためだった。
ところが発車して十数分もしないうちに、通路を挟んだ向かい側が一気に騒がしくなった。
家族連れが座席を回転させ、向かい合わせにして、子どもたちが座席の間を行ったり来たりし始めたのだ。
最初は私も何も言わなかった。
子どもが少し声を出すくらいなら、仕方ないと思っていた。
けれど、だんだん笑い声は大きくなり、足音もバタバタ響き、通路側まで荷物がはみ出してきた。
私はノートパソコンを開いていたが、画面の文字がまったく頭に入らなかった。
そのうち、子どもの水筒が転がってきて、私の足元にぶつかった。
反射的に体を引いた拍子に、膝の上のパソコンが傾いた。
あと少しで床に落ちるところだった。
さすがに危ないと思い、私は顔を上げた。
「すみません、少しだけ静かにしていただけますか?」
できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
すると母親らしき女性が、こちらを見て薄く笑った。
「子どもですから。」
その一言で終わらせるような言い方だった。
私はもう一度だけ言った。
「声だけならまだしも、通路に出ると危ないと思います。」
すると今度は、父親らしき男性がこちらを見た。
「そんなに気になるなら、車掌さんに言えばいいんじゃないですか?」
その言い方は、明らかに挑発だった。
周囲の空気が少し固まった。
近くに座っていた年配の男性も、何度もこちらを見ていたが、何も言えない様子だった。
私は一瞬、スマホを手に取った。
正直、状況を記録したい気持ちはあった。
でも、すぐに画面を伏せた。
人の顔を勝手に撮ることが正しいわけではない。
問題にしたいのは子どもではなく、放置している大人の態度だった。
私はスマホをしまい、座席横の呼び出しボタンを押した。
しばらくして、乗務員の方が来てくれた。
私は感情的にならないように、ゆっくり説明した。
「座席を回転させた状態で荷物が通路側に出ています。」
「お子さんが座席の間を動き回っていて、先ほど水筒がこちらに転がってきました。」
「音もかなり大きく、周囲の方も困っているように見えます。
」
乗務員の方はすぐに状況を確認してくれた。
その間にも、子どもは座席の間から半分通路に出ようとしていた。
乗務員の表情が少し引き締まった。
「お客様、恐れ入りますが、お子様が通路に出ないようご注意ください。」
「また、座席の向きとお荷物についても、周囲のお客様のご迷惑にならないようお願いいたします。」
すると母親が不満そうに言った。
「子ども連れなんですけど。」
私は思わず口を開いた。
「子ども連れが悪いなんて、一言も言っていません。」
「でも、連れている大人が周りを見ないのは違うと思います。」
車内が一瞬、静まり返った。
父親が何か言い返そうとしたが、その前に後ろの年配男性が小さく声を上げた。
「私も、少し困っていました。」
その一言で空気が変わった。
さらに別の乗客も、「通路に出ているのは危ないですね」と続けた。
さっきまで強気だった家族の顔色が、明らかに変わった。
乗務員の方は落ち着いた声で、座席を元に戻すよう案内した。
荷物もまとめられ、子どもたちは座席に座らされた。
少しして、その家族は車両の端に近い席へ案内されることになった。
移動する時、母親は私をちらっと見たが、もう何も言わなかった。
私は深呼吸して、パソコンを開き直した。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、車内は静かになった。
しばらくして、通路の向こうの年配男性が小さく会釈してくれた。
そして降りる前に、私のそばで足を止めた。
「さっきは、言ってくれて助かりました。」
「私も気になっていたんですが、なかなか言えなくて。」
その言葉を聞いて、胸の奥のモヤモヤがすっと消えた。
私は誰かを責めたかったわけではない。
子どもを嫌っていたわけでもない。
ただ、同じ車両にいる人たちが、同じようにお金を払って乗っているという当たり前のことを、忘れてほしくなかっただけだ。
子どもが騒ぐことよりも、注意しない大人のほうがずっと困る。
そして、周りが黙っているからといって、迷惑をかけていい理由にはならない。
あの時、私が一番よかったと思ったのは、怒鳴らなかったことだった。
写真をさらすことでも、言い合いで勝つことでもない。
ちゃんとした手順で、ちゃんと伝えたことだった。
グリーン車は、子ども禁止の場所ではない。
でも、誰かの我慢の上に成り立つ遊び場でもない。
その日、ようやく静かになった窓の外を見ながら、私は心の中で思った。
言うべき時に言うのは、わがままじゃない。
自分の時間と空間を守るための、正当な一言なんだ。