新幹線の指定席で、夫と二人、ようやく座れたと思ってぼーっとしていた。
この日は朝から用事が続いていて、帰りの新幹線だけは絶対に座りたかった。
だから少し早めに予約して、指定席を取っていた。
発車してしばらくすると、通路側に若いカップルが立った。
最初は通るだけだと思った。
けれど二人は、私たちの横で止まったまま動かない。
女の子の方が、少し困ったような顔で口を開いた。
「あの、実は……私たち、ずっと立ってるんです。」
私は一瞬、何の報告だろうと思った。
自由席が混んでいたのかな。
大変ですね、と言えばいいのかな。
そう思って黙っていると、今度は男の子が言った。
「お二人、もうけっこう座ってますよね。」
その瞬間、ようやく意味が分かった。
この人たちは、私たちに席を譲ってほしいのだ。
しかも、お願いするでもなく、こちらが察して立つのを待っている。
私は思わず聞き返した。
「だから?」
二人の顔が、一気に固まった。
まるで、そんな返事が返ってくるとは思っていなかったみたいだった。
女の子は少しムッとして言った。
「いや、私たち本当に疲れてて……。
」
私はうなずいた。
「疲れてるんですね。」
そして、自分のスマホに表示した指定席券を見せた。
「でも、私たちもこの席を予約して、ちゃんとお金を払って座っています。」
男の子の顔が険しくなった。
「少しぐらい譲ってくれてもよくないですか?」
夫が隣で静かにため息をついた。
私は声を荒げずに言った。
「少しぐらい、というなら、少しぐらい予約すればよかったんじゃないですか?」
通路の空気が少し止まった。
近くの席の人たちが、ちらちらこちらを見始めた。
女の子は唇を尖らせた。
「自由席がいっぱいだったんです。」
「だから大変だったんです。」
私はもう一度うなずいた。
「それは大変でしたね。」
「でも、自由席がいっぱいだったことと、私たちが指定席を譲ることは別の話です。」
男の子は小さく笑った。
「冷たいですね。」
その一言で、私の中の最後の遠慮が消えた。
私は座席横の呼び出しボタンを押した。
女の子が慌てたように言った。
「え、そこまでする?」
私は平然と返した。
「はい。」
「指定席のことで困っているので、車掌さんに確認してもらいます。」
しばらくして乗務員さんが来た。
私は感情的にならないように、起きたことだけを説明した。
「こちらは私たちの指定席です。」
「この方たちが、ずっと立っているから席を譲ってほしいというような話をされています。」
「念のため、座席の確認をお願いします。」
乗務員さんは落ち着いた声で、二人に切符の提示を求めた。
二人は急に気まずそうな顔になった。
出てきたのは、自由席の切符だった。
乗務員さんははっきり言った。
「こちらは指定席車両ですので、指定席券をお持ちのお客様が着席されます。」
「自由席のお客様は、自由席車両またはデッキでお待ちください。」
男の子はまだ不満そうだった。
「でも自由席、いっぱいなんですけど。」
乗務員さんは表情を変えずに返した。
「その場合でも、他のお客様の指定席に座ることはできません。」
その一言で、二人は完全に黙った。
さっきまでの“察してくれて当然”という顔は、もうどこにもなかった。
女の子は小さく「行こ」と言って、男の子の袖を引いた。
二人は不機嫌そうに通路を戻っていった。
私は深く息を吐いた。
夫が小声で言った。
「よく言った。」
私は少し笑った。
すると、通路を挟んだ隣に座っていた年配の男性が、こちらを見てぼそっと言った。
「指定席は、誰が疲れてるかで決まる席じゃないからね。」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
本当にその通りだった。
疲れている人を思いやる気持ちは大事だと思う。
でも、思いやりを強要された瞬間、それはただの図々しさになる。
席を譲ってほしいなら、まずお願いの仕方がある。
それ以前に、座りたいなら座れる切符を買えばいい。
私たちは、運よく座っていたわけじゃない。
先に予定を立てて、指定席を取り、その分のお金を払っていた。
それを「私たちは立ってるんで」の一言で渡す理由はない。
窓の外を流れる景色を見ながら、私はようやく背もたれに体を預けた。
あの時、曖昧に笑って譲らなくてよかった。
察してあげる優しさもあるけれど、察したうえで断る勇気も必要だ。
指定席は、気の強い人が奪う席ではない。
ちゃんと買った人が、ちゃんと座る席だ。