母が亡くなった日のことを思い出すたび、今でも胃の奥が重くなる。
病院の白い廊下。
静かになった心電図。
冷たくなっていく母の手。
私は涙も出なかった。
なのに兄は、母の遺体が運ばれる前から、もう金の話を始めていた。
「葬式、ちゃんとしたの出すから」
そう言ってスマホを見ながら、淡々と続けた。
「寺に払う分も含めて、全部で120万円くらい必要になる」
私は思わず聞き返した。
「……120万?」
あまりにも高かった。
でも兄は露骨に顔をしかめた。
「母さんのためだぞ?」
その一言で、私は何も言えなくなった。
母は昔から世間体を気にする人だった。
親戚付き合いも、近所付き合いも大事にしていた。
だから最後くらい、ちゃんとしてあげたい。
そう思ってしまった。
でも。
通夜の準備が始まってから、兄の様子はどこかおかしかった。
「戒名は上のランクにしないとダメだ」
「供養をケチるのは最低だ」
「寺との付き合い壊したいのか?」
まるで寺の人間みたいだった。
しかも、金の話になるとすぐ怒る。
私は恐る恐る聞いた。
「……領収書とか、ないの?」
すると兄は一瞬だけ黙ってから、面倒くさそうに吐き捨てた。
「お布施に領収書なんか出ないんだよ」
その時は、そういうものなのかなと思った。
でも違和感が残った。
母は生前、いつも言っていたからだ。
「お金だけは曖昧にしちゃダメ」
通夜の日。
親戚が焼香している横で、兄は白い封筒を住職に渡していた。
住職は中身も確認せず、そのまま奥へ持って行く。
その瞬間だった。
受付机の端に、私は“ある物”を見てしまった。
『領収証』
そう印刷された冊子だった。
私は一瞬、呼吸が止まった。
“あるじゃん……”
頭の中がざわついた。
兄は「出ない」と言った。
でも寺には普通に領収証が置いてある。
じゃあ、なぜ?
四十九日の準備が始まる頃には、私は完全に疑っていた。
本当に120万円も必要だったのか?
私は兄に内緒で、別の寺へ相談した。
母と同じ規模の葬儀。
戒名あり。
法要込み。
全部説明したあと、恐る恐る聞いた。
「普通、どれくらい掛かるものですか?」
電話口の住職は少し考えてから言った。
「高くても50〜60万円くらいでしょうか」
私は鳥肌が立った。
半額以下だった。
じゃあ残りの金はどこへ消えた?
数日後。
私は一人で寺へ向かった。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
受付には若い副住職がいた。
私は覚悟を決めて聞いた。
「あの……先日のお布施なんですが、領収書って出せますか?」
すると副住職は、驚くほど普通の顔で答えた。
「はい、お出しできますよ」
その瞬間。
背筋が凍った。
私は震える声で続けた。
「ちなみに……母の葬儀で、お寺にお支払いした金額って……」
副住職は帳簿を確認しながら言った。
「60万円ですね」
頭の中で、兄の言葉が弾けた。
“120万円”
半分だった。
私はその場で立っていられなくなった。
寺を出たあと、吐きそうになりながら兄の部屋を調べた。
すると出てきた。
消費者金融の督促状。
カードローン。
赤字だらけの通帳。
借金だった。
兄は母の葬式を利用したんだ。
寺と話を合わせ、金額を水増しして。
差額を、自分の借金返済に回していた。
親族会議の日。
私は全員の前に、寺の正式な記録を並べた。
実際の支払額。
兄が請求した金額。
借金の督促状。
最初、兄は怒鳴った。
「違う!誤解だ!」
でも叔父が静かに聞いた。
「じゃあ、残り60万はどこ行った?」
兄は黙った。
誰も声を出さなかった。
母の遺影だけが、静かにこちらを見ていた。
しばらくして兄は崩れるように座り込み、顔を覆った。
「俺だって苦しかったんだよ……」
泣きながらそう言った。
でも。
私は許せなかった。
どれだけ追い詰められていても。
どれだけ苦しくても。
母の死を利用していい理由にはならない。
私は母の遺影を見ながら、静かに言った。
「“領収書なんか出ない”って言った時点で、
お前、自分が何してるか分かってたよね」
兄は最後まで、顔を上げられなかった。
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