結婚してから、気づけば11年が経っていた。
特別な約束をしたわけじゃない。
でも私は、毎朝夫を駅まで送っていた。
最初はただの気遣いだった。
「遠いし、歩くのしんどい日もある」って笑ってたから、
じゃあ送ろうか、くらいの軽い気持ち。
それが、いつの間にか当たり前になった。
朝起きて、ご飯を作って、片付けて、
時間を見て車の鍵を取る。
助手席にはいつも同じ場所に鞄。
同じ道、同じ信号、同じ流れ。
それが“普通”だった。
疑ったこともなかった。
でも、少しずつズレていった。
夫の帰り時間に合わせて予定を変えること。
急に「迎え来て」と言われること。
待たされる時間。
全部、小さいことだった。
だから私は、全部飲み込んできた。
「ありがとう」って言われるから。
「ごめん」って言われるから。
それでいいと思ってた。
でも、それは違った。
あの日、雨だった。
急に降り出して、駅まで迎えに行った。
夫はいつも通り、少し急いだ様子で乗り込んできた。
「ありがとう、助かった」
いつもと同じ声。
いつもと同じ顔。
私は何も言わずに車を出した。
そのとき、ふと視界に入った。
夫の足元。
濡れた靴。
泥がついていて、車のマットにも水が落ちていた。
その瞬間だった。
言葉にできない感覚が、一気に押し上げてきた。
ただの雨じゃなかった。
その靴が、これまでの全部に見えた。
11年間、合わせてきた時間。
待ってきた時間。
何も言わなかった時間。
全部がそこにあった。
私は急に、疲れていることに気づいた。
ずっと前から、もう限界だったのに、
気づかないふりをしていただけだった。
信号で車が止まった。
赤い光が滲んで、車内が少し暗くなる。
その中で、私ははっきり思った。
——もういい。
もう、続けなくていい。
私はハンドルを握ったまま言った。
「ねぇ、別れましょう」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
夫は固まった。
「え?」
理解できない、という顔。
無理もないと思った。
私だって、ついさっき決めたようなものだったから。
「冗談だろ?」
「冗談じゃないよ」
私は前を見たまま答えた。
「もう続けられない」
夫は何か言おうとして、言葉が出てこないみたいだった。
でも私は止まらなかった。
「送るのが嫌だったわけじゃない」
「でもね、気づいたの」
「これ、支え合いじゃなかった」
「私が合わせ続けてただけだった」
車がゆっくり動き出す。
夫は黙っていた。
その沈黙が、答えみたいだった。
私は続けた。
「ありがとうって言われるたびに、またやるんだって思ってた」
「でも、それって違うよね」
「私、自分のこと後回しにしすぎた」
初めて、ちゃんと口にした。
今まで言わなかったこと。
言えなかったこと。
でも、もういいと思った。
雨はずっと降り続いていた。
でも、なぜか視界ははっきりしていた。
私は静かに言った。
「帰ったら、ちゃんと話そう」
「逃げないから」
「でも、もう戻らない」
そのとき、初めて少しだけ軽くなった気がした。
11年間、続けてきたことは消えない。
でも、それに縛られる必要もない。
私は前を見たまま、小さく息を吐いた。
やっと、自分のために決めた気がした。
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