今日は、冷やし茶漬けを作った。
きゅうりとわかめの酢の物。
冷たい湯豆腐。
大根おろしをたっぷり入れた薄味のおでん。
氷を浮かべた出汁を見ながら、私は少しだけ笑った。
夫はこういう食事を出すと、最近必ず言う。
「助かる。胃が弱ってるから、こういうのがちょうどいい」
私は「そっか」とだけ返す。
でも、本当は知ってる。
数時間前まで、あの人が別の女の部屋にいたこと。
汗をかきながら牡蠣鍋を食べて、
脂の浮いた出汁を飲み干して、
「やっぱ莉奈の料理が一番落ち着く」って笑ってたことも。
全部知ってる。
どうして知ってるのかって?
だって、私の夫は二つの家でご飯を食べてるから。
最初は、本当に分からなかった。
帰宅が遅い理由も、
急に香水を変えた理由も、
スマホを裏返して置く理由も。
でも女って、ある日突然気づく。
違和感が、全部繋がる瞬間がある。
私は夫を責めなかった。
泣き叫びもしなかった。
スマホを奪ったり、問い詰めたりもしなかった。
その代わり、私は夫の食事を変えた。
夫は昔から丈夫だった。
どれだけ働いても倒れない。
夜更かししても平気。
ストレスにも強い。
本人もよく言ってた。
「俺、体だけはマジで強いんだよね」
だから壊すなら、そこからだと思った。
昼。
夫は莉奈の部屋へ行く。
牛タン煮込み。
豚の角煮。
牡蠣鍋。
鶏の照り焼き。
カツ丼。
体を温める、濃くて重い料理。
私はわざと莉奈に言った。
「健太くん、昔から疲れやすいから、滋養あるもの食べさせると喜ぶよ」
莉奈は嬉しそうだった。
「もっと頑張ります!」
本当に純粋な子だった。
自分が復讐の一部になってるなんて、最後まで気づかなかった。
そして夜。
私は夫を迎える。
「おかえりなさい」
何も知らない妻の顔で。
冷たい料理を並べる。
温まった体を、ゆっくり冷やす。
熱を持った内臓を、静かに落とす。
昼は興奮。
夜は虚無。
温めて、冷やして、また温める。
その繰り返し。
毒なんて使ってない。
全部、普通の和食。
スーパーで買える食材だけ。
だから病院でも原因は分からない。
「ストレスですね」
医者はそう言うだけだった。
でも半年後。
夫の体は目に見えて壊れ始めた。
夜眠れない。
動悸がする。
汗が止まらない。
胃が重い。
髪が抜ける。
仕事でもミスが増えた。
それでも夫は気づかない。
自分を壊しているのが、
毎日安心して食べている“家庭料理”だなんて。
ある夜。
夫が突然、私を見ながら言った。
「最近さ……なんか体おかしいんだよな」
私は味噌汁をよそいながら微笑んだ。
「疲れてるんじゃない?」
夫は少し黙ってから、小さく言った。
「……雪ってさ、俺のこと嫌いになった?」
その瞬間、少しだけ笑いそうになった。
今さら?
でも私は首を横に振る。
「そんなわけないでしょ」
そして冷えた茶漬けを差し出した。
夫は安心した顔で箸を取る。
本当に馬鹿だと思った。
人って、“優しくされながら壊される”って発想がない。
だから最後まで気づかない。
夫は最近、よく言う。
「やっぱ家が一番落ち着く」
そう言いながら、今日も私のご飯を食べる。
私は静かに見ている。
少しずつ痩せていく顔。
濁っていく目。
眠れなくなった夜。
全部。
だって——
私の夫は、最後まで私のものだから。
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