名古屋で乗ってきた隣の男性に、いきなり怒鳴られた。グリーン車。静かなはずの車内で、私の耳だけが一瞬で熱くなった。私はさっき、頭上の荷物棚に自分のバッグを置いた。ただそれだけ。
「それ、あなたのですか?」低い声で、確認というより詰問。私が「はい」と答えるより早く、声量が跳ね上がった。
「お金は平等に払ってるんだろ?だったら荷物置き場も平等だろ!なんであなたが占領してるんだよ!」
占領。たった一つのバッグで。周りの空気が、スッ…と引いたのがわかった。数席先の人がページをめくる手を止める。スマホを見ていた人の視線が、一瞬だけ浮く。でもすぐ、見なかったことにする。グリーン車の“礼儀正しい無関心”が、ここにもある。
私は反射的に、バッグを棚から下ろした。揉めるのが嫌だったし、何より、この人の声が鋭すぎた。バッグが膝に落ちた瞬間、私は気づいた。
——その男性、手ぶらだった。両手に何もない。紙袋も、リュックも、上着もない。なのに、荷物棚の“平等”だけは全力で主張している。理解が追いつかなくて、喉の奥がきゅっと縮んだ。怖い、というより、気味が悪い。言葉が通じる人かどうか、判別できない感じ。それでも彼は止まらない。
「みんな同じ料金なんだからさ!ルールってもんがあるだろ!」
ルール?新幹線の頭上棚は、先に置いた人が置いて、必要なら「少し詰めてもらえますか?」って声をかける。普通はそれで終わる。それが“大人”のやり方。でもこの人は、最初から殴りに来ている。会話じゃなくて、勝ち負け。私はその“リング”に上がりたくなかった。名古屋から東京まで。この人の隣で、何かの拍子にまた火がつく。そう思っただけで、胃が重くなった。
私は深呼吸して、席を立った。バッグを抱えて、通路に出る。背中に刺さる声。
「どこ行くんだよ!逃げるのかよ!」
逃げる。——うん、逃げるよ。勝ち負けの相手じゃない。自分の時間と心を守るために、離れる。私は車掌さんを探した。ちょうど巡回していた車掌さんに、短く事情を伝える。
「隣の方が、荷物棚のことで大きな声で…。
他に空席があるなら移動したいです」
車掌さんは顔色ひとつ変えず、すぐに周囲を見て、「承知しました。空席がございますので、こちらへどうぞ」。その落ち着きに、私はやっと息ができた。“この場にルールがある”という感覚が戻ってくる。移動のために元の席へ戻ると、彼はまだ戦闘態勢だった。椅子に背中を預けず、前のめりで、私を見張っている。車掌さんが一言、淡々と告げる。
「頭上の荷物棚は共有スペースです。必要に応じて譲り合ってご利用ください。また、大きな声での会話はご遠慮ください」
彼は一瞬だけ黙った。でもすぐ、悔しそうに鼻で笑う。
「俺は正しいこと言ってるだけだろ?」
その“正しさ”の押し売りが、いちばん迷惑なんだよ。そう言い返したいのを飲み込んだ。
私はバッグを抱え直して、新しい席へ移ろうとした。その瞬間、彼がまた口を開きかけた。——今言わないと、たぶん一生モヤる。私は振り返って、穏やかな声で、でもはっきり言った。
「お荷物、今どちらに?」
たったそれだけ。“平等に置きたい荷物”がある人の言葉なのか。ただ誰かを叱りたいだけの言葉なのか。それを、事実で確かめただけ。彼の目が泳いだ。空の手を、一瞬だけ握りしめた。周りの空気が、さらに静かになった。私はそれ以上、何も言わなかった。言い負かすためじゃない。“この会話は成立していません”と告げるだけで十分だった。そのまま私は前方の空席に移動した。後ろから何か言葉が飛んできそうな気配がした。でも私は、聞こえないふりをした。東京までの道のりを、あの人の感情の爆弾に預ける必要はない。私は座席に腰を下ろし、バッグを膝に置いた。そして、スマホの画面を一度消した。