《予約した車いすスペースを勝手に塞がれたうえ、「泥棒」と叫ばれた話》
ドアがプシューッと閉まった瞬間、男の怒鳴り声が車内に響いた。
「おい!何してんだよ!俺の荷物に触んな!泥棒!」
一瞬で、車内の視線が私に集まった。
私は母の車いすを押したまま、通路の真ん中で動けなくなっていた。
前には大きな黒いスーツケース。
後ろには乗客の列。
そして私の手には、ちゃんと予約したチケットがあった。
そこは、母の車いすを置くためにわざわざ取った「特大荷物スペース付き座席」だった。
私はその男を見て、できるだけ冷静に言った。
「ここ、私が予約しています」
男は眉を吊り上げた。
「は?みんな置いてるだろ。ちょっと触ったよな?中身が減ってたらどうすんだよ」
母が小さく私の袖をつかんだ。
その手が震えていた。
その瞬間、私の中で何かが切れた。
私はチケットを座席番号の横に当てた。
「見てください。ここは私の予約席です。母の車いすを置く場所です」
すると男は急に声を落として、私の近くに寄ってきた。
「大ごとにしたくないだろ?2万円でいいよ。払えば黙ってやる」
その言葉で、全部分かった。
この人は怒っているんじゃない。
最初から、こっちを弱そうだと思って狙っていたんだ。
車いすの母を連れた私なら、騒ぎを避けて金を出すと思ったんだろう。
私は黙って呼び出しボタンを押した。
男の顔色が変わった。
「おい、何してんだよ」
「車掌さんを呼びます」
そう言うと、男は慌ててスーツケースの取っ手をつかんだ。
そして、そのまま引きずって別の車両へ行こうとした。
私は一歩前に出て、車輪を止めた。
「今それを持って逃げるなら、あなたが盗もうとしていることになりますよ」
男の手が止まった。
さっきまで大声だったのに、急に口数が減った。
そこへ車掌さんが来た。
私はチケットを見せ、母の車いすを指さし、状況を短く説明した。
車掌さんは床の表示と座席番号を確認して、男に向き直った。
「こちらは予約されたお客様専用の特大荷物スペースです。お荷物の持ち主はどなたですか?」
男はすぐに言った。
「俺のです」
車掌さんは表情を変えずに続けた。
「では確認のため、荷物タグ、購入証明、もしくは中身の確認をお願いします」
男が固まった。
「いや、そこまでする必要ある?」
「ご自身のお荷物であれば確認できますよね」
車内が静かになった。
男はスーツケースから手を離した。
さっきまで私を泥棒呼ばわりしていた人間が、自分の荷物だと証明できない。
その空気は、誰が見てもおかしかった。
車掌さんは淡々と言った。
「確認できない場合は、持ち主不明のお荷物としてお預かりします」
別の乗務員さんが来て、スーツケースを移動させた。
すぐに車内放送が流れた。
「黒いスーツケースをお預かりしております。お心当たりのお客様は乗務員までお知らせください」
男は小さく舌打ちした。
私はその間に、母の車いすを本来のスペースへ押し込み、固定ベルトを締めた。
母はようやくほっとした顔をした。
「ごめんね、迷惑かけて」
その言葉に、胸が詰まった。
迷惑をかけたのは母じゃない。
勝手に置いた人間と、それを利用して金を取ろうとしたあの男だ。
数分後、別の車両からスーツ姿の男性が小走りでやって来た。
「すみません!放送の黒いスーツケース、たぶん僕のです!」
その男性はすぐに荷物タグを見せた。
レシートも出した。
鍵も持っていた。
車掌さんが確認すると、スーツケースは間違いなくその人のものだった。
車内の空気が一気に変わった。
全員の視線が、さっきの男に向いた。
男は顔色を失っていた。
車掌さんの声が、さっきより少し低くなった。
「先ほど、ご自分の荷物だとおっしゃいましたよね」
男は目をそらした。
「いや、その……勘違いで」
私は思わず言った。
「勘違いで他人の荷物を自分の物って言って、しかも私に2万円払えって言ったんですか?」
男は何も言えなかった。
さっきまで「泥棒」と叫んでいた人間が、今度は自分の言葉で逃げ場をなくしていた。
車掌さんは状況を記録し、男に厳重注意した。
本当の持ち主には荷物が返され、母の車いすは予約した場所にきちんと収まった。
列車が動き出す。
窓の外の景色が流れていく。
私は深く息を吐いた。
大声を出した方が正しいわけじゃない。
先に被害者ぶった方が勝つわけでもない。
チケットがある。
予約がある。
証拠がある。
そして、ちゃんと声を上げれば、状況はひっくり返る。
男は最後まで私を見なかった。
でも、それで十分だった。
他人のスペースを奪い、他人の荷物を自分の物だと言い、さらに金まで取ろうとした結果。
最後に恥をかいたのは、私ではなかった。