「荷物にも指定席、取ってるんですか?」
私がそう思ったのは、混み始めた特急の車内で、ひとりの女性が三人分の座席を占領していたからだった。
本人は窓側にゆったり座り、隣の席には黒いバッグ。
その隣には紙袋とポーチ。
さらに膝の上ではなく、空いた座席にお菓子まで置いていた。
まるで自分の部屋みたいだった。
最初は、誰かがトイレに行っているだけかと思った。
だから私は何も言わなかった。
でも一駅過ぎても、二駅過ぎても、誰も戻ってこない。
その間にも乗客は増えていった。
通路には立っている人が出てきた。
大きな荷物を持った人もいた。
少し足元のおぼつかない年配の男性も、つり革につかまりながら立っていた。
それでも彼女は、スマホを見たまま動かない。
隣の席に置いたバッグをどかす気配すらない。
しばらくして、若い女性が遠慮がちに声をかけた。
「あの、ここ座ってもいいですか?」
すると彼女は、顔も上げずに言った。
「そこ、人います」
その一言で、周りの空気が少し固まった。
でも、その“人”はどこにもいなかった。
私は思わず時計を見た。
さっきからずっと、この席には荷物しか座っていない。
それでも彼女は平然としていた。
まるで、先に荷物を置いた自分の勝ちだと言わんばかりだった。
私は迷った。
直接言うべきか。
それとも、黙って見過ごすべきか。
でも、その時、年配の男性が電車の揺れで少しよろけた。
近くにいた人が慌てて支えた。
その瞬間、私の中で何かが切れた。
これはもう、ただの“席取り”じゃない。
公共の座席を、勝手に私物化しているだけだ。
しかも、困っている人が目の前にいるのに、見えないふりをしている。
私は彼女に言い返さなかった。
揉めるのも面倒だったし、下手に口論になれば周りにも迷惑がかかる。
だから私は、静かに席を立った。
そして車両の連結部分へ向かった。
ちょうどそこに通りかかった乗務員さんに、私は事情を説明した。
「すみません、あちらの方が荷物で二席分を使っていて、立っている方がいるんです」
乗務員さんはすぐに車内を確認してくれた。
そして、彼女の前で足を止めた。
声は丁寧だった。
でも、はっきりしていた。
「お客様、お荷物は座席ではなく、棚か膝の上にお願いいたします」
その瞬間、彼女の顔色が変わった。
さっきまでスマホから目を離さなかったのに、急に周りを見回した。
当然、みんな見ていた。
誰も大声を出していない。
でも、視線だけで十分だった。
彼女は小さく舌打ちしそうな顔をしたけれど、乗務員さんが立っている以上、もう逃げられない。
黒いバッグを持ち上げた。
紙袋を膝に乗せた。
ポーチも慌ててまとめた。
たったそれだけで、二つの席が空いた。
乗務員さんは年配の男性に声をかけた。
「よろしければ、こちらにお座りください」
男性は少し申し訳なさそうに座った。
そして私の方を見て、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
私は「いえ」とだけ返した。
正直、その一言だけで十分だった。
一方で、彼女は明らかに不機嫌そうだった。
でも、もう誰も彼女の味方ではなかった。
さっき「そこ、人います」と言った席には、ようやく本当に人が座っていた。
次の駅で、また乗客が増えた。
その時だった。
彼女が一瞬、膝の上の紙袋をまた隣の座席に戻そうとした。
私は見ていた。
たぶん、周りも見ていた。
そして、ちょうどそのタイミングで、さっきの乗務員さんが通路を戻ってきた。
彼女の手が、ピタッと止まった。
次の瞬間、紙袋をぎゅっと抱きしめるように膝に戻した。
私は思わず心の中で笑った。
結局、分かっているのだ。
荷物を座席に置くのが迷惑だということも。
注意されたら通用しないことも。
ただ、誰も何も言わないと思っていただけだった。
その後、彼女は目的地まで一度も荷物を座席に置かなかった。
スマホを見る姿勢も、さっきよりずいぶん小さく見えた。
私は別に、誰かを恥ずかしめたかったわけじゃない。
でも、公共の場所で「自分だけ楽ならいい」という態度を見ると、黙っている方が疲れる。
席は荷物のものじゃない。
早い者勝ちの私物置き場でもない。
同じ料金を払って乗っている人たちのための場所だ。
大声で怒鳴らなくてもいい。
無理に正面からぶつからなくてもいい。
ちゃんと然るべき人に伝えれば、空気は一瞬で変わる。
あの日、彼女が抱えたのはバッグだけじゃない。
自分勝手に広げていた“厚かましさ”まで、全部自分の膝の上に戻すことになった。