《退職金がマイナス?総務にその場で確認したら、空気が一変した》
9年2ヶ月働いた最後に、会社から届いた退職金通知書には「支給額0円」ではなく、赤い数字で「-119,900円」と書かれていた。
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、胸の奥から笑いとも怒りともつかないものが込み上げた。
「9年働いて、最後に俺が会社へ金を払うのか?」
通知書を持つ手に力が入った。
俺は愛知の物流倉庫で働いていた。
夏は倉庫内が40度近くなり、汗で作業着が背中に張りついた。
冬の早朝は、フォークリフトのハンドルを握る指先がしびれた。
年末の繁忙期は、三連休なんて最初から存在しなかった。
月60時間近い残業もあった。
人が足りない日は、休憩を削ってでも荷物を流した。
フォークリフトの免許も、自分の金で取った。
それでも文句を言わなかった。
「いつか報われる」とまでは思っていなかったが、少なくとも最後に踏みつけられるとは思っていなかった。
通知書をもう一度見た。
確定拠出年金、545,000円。
会社都合退職一時金、517,833円。
合計、1,062,833円。
そこに自己都合係数40%。
退職金合計、425,100円。
そして最後に、確定拠出年金分を差し引いて、一時金支給額が-119,900円。
紙の上では計算が整っていた。
だが、どう見てもおかしかった。
なぜ俺の名義で積み立てられているはずのDCを、いったん退職金に混ぜるのか。
なぜ最後に差し引いて、まるで俺が会社に借金しているような表示にするのか。
偶然の書き方ではない。
そう思った瞬間、俺は席を立っていた。
通知書を握りしめたまま、総務のカウンターへ向かった。
「これ、俺が払うんですか?」
俺の声は低かった。
総務の担当者は通知書を見て、少しだけ目を泳がせた。
「いえ、請求ではありません」
その一言で、俺の中の何かがさらに冷えた。
「では、なぜマイナス表示なんですか?」
担当者は事務的な顔に戻った。
「支給額が0円という意味です」
その言い方が、いちばん腹立たしかった。
0円なら0円と書けばいい。
なぜ-119,900円と書く必要がある。
俺は通知書の赤い丸を指で叩いた。
「これを見た人間は、普通に考えたら自分が会社に払うのかと思いますよね?」
担当者はすぐには答えなかった。
その沈黙で十分だった。
俺はその場でスマホを取り出した。
「この545,000円のDCは、今どこにあるんですか?」
担当者の表情が少し変わった。
「それは個人の確定拠出年金口座に残ります」
「残るんですね?」
「はい」
俺はその場でDCの運用口座にログインした。
残高、545,000円。
一円も減っていなかった。
その数字を見た瞬間、息が戻った。
俺の9年は、紙の上で勝手にマイナスにされただけだった。
本当に大事な金は、俺の名義でちゃんと残っていた。
俺はスマホの画面を総務に見せた。
「つまり、俺は会社に119,900円を払う必要はないし、この545,000円は俺の資産ということで間違いないですね?」
担当者は小さくうなずいた。
「はい、そうです」
そこで終わらせてもよかった。
だが、俺は終わらせなかった。
「では、この通知書の書き方について、正式な説明を文書でください」
担当者の顔が固まった。
「文書ですか?」
「はい」
俺は淡々と言った。
「計算根拠、就業規則、退職金制度の条文、DCの帰属、そしてこのマイナス表示が請求ではないという説明を、全部書面でください」
総務の奥がざわついた。
さっきまで事務的だった空気が、明らかに変わった。
俺は声を荒げなかった。
怒鳴る必要なんてなかった。
事実を並べるだけで、相手の逃げ道は勝手に狭くなっていく。
数日後、会社から連絡が来た。
「今回の通知について、誤解を招く可能性があるため、説明文書を追加します」
俺は電話口で黙って聞いた。
さらに数日後、修正された書類が届いた。
そこには、マイナス表示は請求を意味しないこと、確定拠出年金は個人資産として口座に残ること、会社から追加請求は発生しないことがはっきり書かれていた。
しかも、それだけではなかった。
同じ制度で退職した人にも、追加説明を送ることになったらしい。
俺一人の確認で、会社は書式の扱いを変えた。
最後の出勤日、倉庫の蛍光灯はいつも通り冷たかった。
タイムカードを通す音も、いつも通り乾いていた。
でも、その音は敗北の音ではなかった。
区切りの音だった。
会社は俺に一時金を払わなかった。
それは事実だ。
だが、俺は会社に一円も払っていない。
それも事実だ。
そして、俺の口座には545,000円が残っている。
これがいちばん動かせない事実だった。
通知書の赤い数字は、もう怖くなかった。
-119,900円。
最初は俺を脅す数字に見えた。
だが今は、ただの見せ方のトリックにしか見えない。
9年2ヶ月の汗を、会社の紙一枚でマイナスになんてさせてたまるか。
俺は通知書を封筒に戻し、鞄に入れた。
そして倉庫の門を出た。
背中は軽かった。
会社が最後にくれたのは0円。
でも俺が持って出たのは、54万円と、黙って泣き寝入りしなかった自分だった。
紙の上ではマイナス。
現実で最後に笑ったのは、俺だった。