満席の新幹線で、父は自分の席に座っていた。
七十を過ぎた父は膝が悪く、長く立っていると痛みで顔色が悪くなる。
だから私は、少しでも楽に移動できるように、早めに指定席を取っていた。
車内は混んでいて、通路にも人が立っていた。
父は窓の外を見ながら、少し疲れた顔で座っていた。
私は飲み物を買いに行き、ついでに洗面所に寄った。
戻ってきたとき、最初に見えたのは、通路に立っている父の背中だった。
父は座席の横に手を添えて、ふらつかないように立っていた。
顔色が白い。
私は一瞬で嫌な予感がした。
見ると、父が座っていた席には、見知らぬ若い母親が座っていた。
膝の上には子ども。
片手にはスマホ。
父には目も向けていなかった。
私は父に駆け寄った。
「お父さん、どうしたの?」
父は困ったように笑った。
「いや、子どもさんがいるからって言われてな……少し立っていれば大丈夫だよ」
大丈夫なわけがない。
膝に手を当てて、必死に体を支えている人が、大丈夫なはずがない。
私はその女性に向き直った。
「すみません、ここは父の席ですが」
女性はスマホから目を離さずに言った。
「子どもがいるんです。少しぐらい配慮してもらえませんか?」
その言い方に、胸の奥が冷えた。
お願いではなかった。
当然のように、席を渡せと言っている声だった。
私はもう一度聞いた。
「この席、あなたの指定席ですか?」
女性はようやく顔を上げた。
「老人なら少し譲ってくれてもいいじゃないですか。子どもは疲れやすいんです」
私は静かに笑った。
「子どもは疲れる。でも高齢者は疲れないんですか?」
女性の眉がぴくりと動いた。
「冷たいですね。子育てしたことないんですか?」
その瞬間、隣の席の男性が口を開いた。
「今のは違うと思いますよ」
女性が固まった。
男性は続けた。
「さっき、このお父さんにかなり強めに言って立たせていましたよね。見ていました」
反対側に座っていた年配の女性も言った。
「この方、足が悪そうに見えましたよ。それでも立たせたんですか?」
車内の空気が変わった。
さっきまで誰も見ていないふりをしていた人たちの視線が、一斉にその女性へ向いた。
女性は急に声を小さくした。
「そんなつもりじゃ……ただ、子どもがいて大変で……」
私は父の指定席券を取り出した。
「大変なのは分かります。でも、だからといって他人の席を取っていい理由にはなりません」
女性はまだ座ったままだった。
「でも、少しだけなら……」
私はそこで言葉を切った。
もう話し合う相手ではないと思った。
私は通路の先にいた車掌さんを呼んだ。
「すみません。この席の確認をお願いします」
女性の顔色が変わった。
「そこまでする必要あります?」
私は即答した。
「あります。父が立たされていますので」
車掌さんが来て、私のチケットを確認した。
そして女性にも尋ねた。
「お客様のお席はどちらですか?」
女性は小さく答えた。
「別の車両です」
「こちらのお席ではないということですね」
その瞬間、周囲がざわついた。
どうやら彼女は、自分の席が離れているのが嫌で、空いているように見えた父の席に来たらしい。
しかも、父が座っているのを分かった上で。
車掌さんは丁寧だが、はっきりと言った。
「こちらはこの方の指定席です。ご自身のお席へお戻りください」
女性は不満そうに立ち上がった。
「子ども連れには本当に厳しいんですね」
私は父を支えながら言った。
「厳しいんじゃありません。席を買った人に戻しているだけです」
周囲の何人かが、静かにうなずいた。
女性は抱っこした子どもを揺らしながら、ぶつぶつ文句を言って去っていった。
その背中に向かって、隣の男性がぽつりと言った。
「配慮って、奪うための言葉じゃないですよね」
私はその言葉に、思わず胸が熱くなった。
父を席に座らせると、父は申し訳なさそうに言った。
「すまんな。大ごとにさせて」
私は父の膝に上着をかけた。
「大ごとにしたのは私じゃないよ。お父さんの席を当然みたいに取った人」
父は黙って窓の外を見た。
少しして、小さく笑った。
「お前、強くなったな」
私は笑い返した。
「お父さんがずっと我慢してきた分、今日は私が我慢しなかっただけ」
子どもがいる人に優しくするのは大切だと思う。
困っている人に手を貸すのも大事だと思う。
でも、それは誰かを押しのけていい理由にはならない。
配慮は、声の大きい人だけのものじゃない。
座っている高齢者にも、足の悪い人にも、ちゃんと向けられるべきものだ。
父はその後、目的地まで無事に座って過ごせた。
私は去っていった女性の背中を思い出しながら、心の中で一つだけ思った。
本当に必要な配慮は、奪い取るものじゃない。
譲ってもらう前に、まず人の席を人の席として見ることだ。