甥っ子を迎えに行った瞬間、私は嫌な予感がした。
いつもなら私を見つけると走ってくるのに、その日は腕を抱えるようにして、ずっと服の袖を引っぱっていた。
「どうしたの?」
しゃがんで袖をめくった瞬間、息が止まった。
小さな赤い点が、腕いっぱいに出ていた。
一つや二つじゃない。
手首から肘のあたりまで、ぽつぽつと広がっている。
足にも、似たような跡があった。
私はすぐに先生に聞いた。
「これ、園では気づいていましたか?」
先生はちらっと見ただけで、軽い口調で言った。
「ああ、小さい子は皮膚が弱いですからね。蚊じゃないですか?」
その言い方に、胸の中がざわついた。
蚊?
本当にそうなら、なぜ甥っ子はこんなにかゆがっているのか。
なぜ片腕だけじゃなく、足にも出ているのか。
なぜ先生は、確認もせずに終わらせようとしているのか。
私は周りを見た。
すると、別の子も腕をかいていた。
その隣の子も、首のあたりをずっとこすっていた。
一人じゃない。
私はそこで、すぐスマホを出した。
甥っ子の腕と足を撮影し、時間も残した。
先生の顔色が少し変わった。
「そんなに心配しなくても……」
私は静かに言った。
「心配なので、記録します」
そのまま甥っ子を連れて病院へ行った。
診察では、接触したものや環境、同じ症状の子がいないかを確認するよう言われた。
私は診察後、家長グループに一文だけ送った。
「今日、子どもの体に赤い発疹やかゆみが出ている方はいませんか?」
送信して数分後、グループが一気に動いた。
「うちもです」
「朝はなかったのに、帰宅後に出ました」
「足をずっとかいています」
「園に聞いたら“虫刺されかも”と言われました」
私は画面を見ながら、手が冷たくなった。
やっぱり、甥っ子だけじゃなかった。
その夜、家長たちから次々と写真が送られてきた。
腕。
足。
首まわり。
症状の出方はそれぞれ違ったけれど、同じ日に複数の子どもに出ていることは明らかだった。
翌朝、園長から私にだけ電話が来た。
「少しお話できますか?」
声はやわらかかった。
でも内容は、やわらかくなかった。
「不安になるお気持ちは分かりますが、グループで広げると混乱しますので……」
私は聞き返した。
「混乱するのは、情報を共有したからですか?それとも、園が説明しなかったからですか?」
園長は黙った。
それから小さな声で言った。
「こちらでも確認していますので、大ごとにはしないでいただけると」
その瞬間、私は完全に腹をくくった。
子どもたちは、かゆいとも痛いとも、うまく説明できない。
大人が見て見ぬふりをしたら、そのまま終わってしまう。
私は家長たちと連絡を取り、写真、受診記録、園とのやり取りをまとめた。
そして園に正式に要求した。
原因の調査。
保育室と寝具の確認。
玩具やマットの清掃状況の説明。
全家庭への一斉連絡。
必要な消毒と再発防止策。
園長は最初、渋っていた。
「そこまでしなくても……」
私ははっきり言った。
「そこまでしなかった結果、複数の子が同じ症状を出しているんですよね?」
その場にいた先生たちは、誰も反論できなかった。
その後、家長の一人が関連窓口に相談したことで、園には確認が入った。
そこから対応は一気に変わった。
それまで「蚊かもしれません」と流していた園が、急に全家庭へ連絡を出した。
保育室の清掃。
寝具の確認。
遊具の消毒。
子どもたちの体調確認。
そして後日、園長は家長の前で頭を下げた。
「初期対応が不十分でした。ご不安を与えてしまい、申し訳ありません」
最初に「蚊じゃないですか」と言った先生も、気まずそうに立っていた。
私はその先生に言った。
「蚊かどうかを決めてほしかったわけじゃありません」
先生は顔を上げた。
「子どもの異変を、軽く見ないでほしかっただけです」
その後、園の連絡体制は変わった。
小さな体調変化でも、家庭へ必ず共有されるようになった。
清掃記録も掲示されるようになった。
甥っ子の症状も、受診とケアで少しずつ落ち着いていった。
帰り道、甥っ子が私の手をぎゅっと握った。
私はその小さな手を見て、胸が熱くなった。
子どもは、自分で園に抗議できない。
「ちゃんと見て」と言えない。
だから大人が言うしかない。
私はもう一度、甥っ子の手を握り返した。
「大丈夫。あなたが言えない時は、私が言うからね」
子どもの体に出た小さな赤い点。
それを「よくあること」で終わらせるか。
それとも、守るための合図として受け止めるか。
大人の差は、そこで出ると思う。