【手をつないだまま道をふさぐカップルに、私が何も言い返せなかった理由】
その日、私はベビーカーを押して、病院へ向かっていた。
子どもは朝から少し熱っぽく、予約の時間にもギリギリだった。
近道のつもりで入ったのは、住宅街の細い歩道だった。
左は高い塀。
右はフェンス。
人が二人並んだら、それだけでいっぱいになるような道だった。
そこへ、前から一組のカップルが歩いてきた。
二人は手をつなぎ、楽しそうに話しながら、道の真ん中をゆっくり歩いていた。
最初は、こちらに気づけば自然に一列になってくれると思っていた。
普通なら、そうする。
前からベビーカーが来ているのだから、少し手を離すだけで済む話だった。
けれど、二人は私を見ても速度を落とさなかった。
目が合った。
確実に、こちらに気づいていた。
それでも、手をつないだまま、道の真ん中を動かなかった。
私はベビーカーを止め、できるだけ穏やかに言った。
「すみません、少しだけ通していただけますか。子どもが乗っているので」
すると、女性は面倒くさそうに私を見た。
男性は、わざとらしく彼女の手を強く握り直した。
そして、小さく笑って言った。
「こっちも通ってるんですけど」
私は一瞬、言葉を失った。
通っているのは分かる。
でも、こちらはベビーカーだ。
塀にも寄れない。
フェンスにも寄れない。
後ろにも人が来ている。
私だけが我慢すればいい、という状況ではなかった。
それでも私は、もう一度だけ言った。
「本当に少しだけで大丈夫です。手を離して一列になってもらえたら通れます」
女性はため息をついた。
「え、なんで私たちがそこまでしなきゃいけないの?」
その言葉に、胸の奥が一気に冷たくなった。
子ども連れだから偉いと思っているわけではない。
優先しろと言っているわけでもない。
ただ、道を共有してほしいだけだった。
なのに、二人はまるで私が迷惑をかけている側みたいな顔をしていた。
私は仕方なく、ベビーカーを少し後ろに下げようとした。
その時だった。
後ろから、低い声が響いた。
「じゃあ、私も壁に張り付けばいいのかね」
振り返ると、杖をついた高齢の男性が立っていた。
その後ろには、買い物袋を持った女性。
さらに、スーツ姿の男性もいた。
いつの間にか、細い道の後ろには何人もの人が詰まっていた。
高齢の男性は、カップルをまっすぐ見て言った。
「若い人が手を離すより、赤ちゃんの乗った車を下げるほうが大事なのかい?」
カップルの顔色が少し変わった。
でも、男性のほうはまだ強がっていた。
「別に、そんなつもりじゃないですけど」
その瞬間、近くの店のシャッターがガラッと開いた。
出てきたのは、通り沿いの小さな店の店主だった。
店主は腕を組んで、ため息まじりに言った。
「君たち、さっきからずっとそうだよ」
カップルが固まった。
店主は続けた。
「前の角でも、人が来てるのに横並びのまま歩いて、肩をぶつけてただろ」
女性が慌てて言った。
「ぶつけてないです」
店主は店の入り口を指さした。
「悪いけど、うちの防犯カメラに映ってる」
その一言で、空気が変わった。
男性は急に黙った。
女性も視線をそらした。
さっきまで強気だった二人が、急に小さく見えた。
後ろにいたスーツ姿の男性が静かに言った。
「みんな急いでいるんです。恋人同士で歩くなとは言いません。ただ、前から人が来たら一列になるくらい普通でしょう」
買い物袋の女性も頷いた。
「手をつなぐのは自由。でも、人の通行を邪魔してまで見せつけるものではないですよ」
誰も怒鳴っていなかった。
でも、その場にいる全員の声が、二人を逃がさなかった。
男性はようやく彼女の手を離した。
そして、気まずそうに壁側へ寄った。
女性も黙ったまま、顔を赤くして横に避けた。
私は小さく頭を下げ、ベビーカーを押して進んだ。
すれ違う瞬間、女性が小さな声で言った。
「大げさ……」
私は何も返さなかった。
けれど、後ろの高齢の男性がさらっと言った。
「手をつなぐ前に、常識をつないでおきなさい」
その場にいた何人かが、思わず吹き出した。
カップルは完全に黙った。
私はその言葉に救われた気がした。
子育て中だから、何でも許されるとは思っていない。
でも、ベビーカーを押しているだけで、まるで邪魔者扱いされる瞬間がある。
道を少し譲る。
手を少し離す。
一列になる。
それだけのことが、どうしてそんなに難しいのだろう。
病院に着いたころ、子どもはベビーカーの中ですやすや眠っていた。
私はその寝顔を見ながら、さっきの細い道を思い出した。
人の優しさは、大きなことではなく、ほんの数秒の行動に出る。
そして、教養のなさもまた、ほんの数秒で見えてしまう。
手をつなぐのは素敵なことだと思う。
でも、誰かを押しのけてまで守る手なら、それは愛情ではなく、ただの迷惑だ。
本当に大切な人と歩くなら、周りの人にも少しだけ優しくできるはず。
そういう人の隣を歩ける人こそ、きっと本当に幸せなのだと思う。