7月1日の朝、私はいつも通り自分の席に座った。
コーヒーを置き、パソコンを開こうとした瞬間、隣の席の上司の卓上カレンダーが目に入った。
そこには、普通なら「会議」「資料提出」「打ち合わせ」と書かれているはずだった。
なのに、最初に飛び込んできた文字は「キーボン出社 解禁」。
私は思わず二度見した。
さらに視線を下げると、「昼寝(6時間)」「扇風機にア〜〜と言う」「ファミレスの順番」「お弁当おすすめ」まで書いてある。
仕事の予定表というより、もはや上司の脳内をそのまま印刷したようなカレンダーだった。
最初は笑いをこらえた。
だが問題は、そこに私たち部下のことまで書かれていたことだった。
「朝食ミーティング ロッテリア」
「資料チェック」
「誰かのミスを拾う日」
「人救うのいずが おもしろいゲーム」
その一文を見た瞬間、私は笑えなくなった。
いずとは、私のことだった。
私の名前が、なぜか“おもしろいゲーム”扱いされていた。
上司は悪気なく人をいじるタイプだった。
新人が少し噛めば「今の録音したかったな」と笑い、誰かが資料を忘れれば「来週の名場面だな」と言う。
本人は冗談のつもりでも、言われた側は毎回、薄く傷ついていた。
それでも誰も強く言い返さなかった。
言い返せば、「最近の若い人は冗談が通じない」で終わるからだ。
その日も昼休み、上司はカレンダーを指で叩きながら言った。
「これはチームのリスク管理だからな」
私は聞き返した。
「人の失敗を書くのが、ですか?」
上司は真顔でうなずいた。
「そうだよ。忘れないためだ」
その瞬間、私は決めた。
忘れないためなら、私も記録してやろう。
次の日から、私は小さなノートを作った。
名前は「上司観察カレンダー」。
月曜日、上司は「今月こそ痩せる」と宣言し、昼に唐揚げ弁当を二つ食べた。
火曜日、会議で自分が出した議題を忘れ、「誰がこの話を始めたんだ?」と全員に聞いた。
水曜日、資料チェックと言いながら、三十分ずっとスポーツクラブ退会の方法を調べていた。
木曜日、扇風機の前で本当に「ア〜〜」と言っていた。
金曜日、午睡六時間の夢を語りながら、三時に眠気で議事録を閉じた。
私は全部、淡々と書いた。
誇張はしなかった。
悪口も書かなかった。
ただ、事実だけを並べた。
すると、不思議なことに同僚たちも少しずつ協力してくれるようになった。
「今日の上司、会議中に自分の眼鏡を探してました。頭の上にありました」
「朝礼で“時間厳守”って言った本人が五分遅刻しました」
「資料の締切を私に確認してきたけど、その資料、上司の引き出しにありました」
気づけば、私のノートは一冊の立派な“上司ドキュメント”になっていた。
そして月末の部署ミーティング。
上司はいつものようにカレンダーを掲げた。
「今月はみんな、なかなかネタが多かったな」
その瞬間、私は手を上げた。
「では、私からも今月のリスク管理報告をしていいですか?」
上司は何も知らずに笑った。
「お、いいじゃないか」
私はプロジェクターに資料を映した。
タイトルはこうだった。
「7月 上司行動記録」
会議室が一瞬、静まり返った。
次のページに、事実だけを並べた。
「減量宣言翌日の唐揚げ弁当二個」
「会議主催者なのに議題を忘れる」
「資料チェック時間に退会手続きを検索」
「部下の失敗を笑いにする一方、自分のミスは“人間味”で処理」
最初に吹き出したのは、隣の先輩だった。
次に後輩が肩を震わせた。
最後には、部長まで口元を押さえていた。
上司の顔はみるみる赤くなった。
「いや、これはだな……」
すると部長が静かに言った。
「なるほど。確かにこれはリスク管理だね」
上司は固まった。
部長は続けた。
「人を笑い者にする記録より、こちらの方がずっと職場改善に役立つ」
その場の空気が一気に変わった。
上司は言い返せなかった。
なぜなら、私の資料には一つも嘘がなかったからだ。
その後、上司の“創作型カレンダー”は撤去された。
代わりに部署共有の正式なスケジュール表が作られ、個人をいじるような書き込みは禁止になった。
さらに、なぜか私がその管理担当になった。
正直、少し面倒だ。
でも、あのカレンダーに自分の名前を書かれて笑われるよりは、ずっといい。
7月の終わり、上司は小さな声で私に言った。
「ちょっとやりすぎたかもしれないな」
私は笑って答えた。
「大丈夫です。忘れないように、ちゃんと記録しておきますから」
上司はその日から、誰かの失敗を“ネタ”とは呼ばなくなった。
そして私は学んだ。
職場で本当に強い反撃は、怒鳴ることじゃない。
相手が笑いに変えたものを、事実として机の上に戻すことだ。