その日の電車は、そこそこ混んでいた。
満員ではないけれど、座れば肩が触れそうになるくらいの混み具合。
私は仕事帰りで、明日も朝から取引先に行く予定があった。
だからスラックスもできるだけ汚したくなかった。
なのに、隣に座った女性は、まるで自宅のソファにいるみたいに脚を組んでいた。
しかも、そのスニーカーのつま先が、私のスラックスに何度も近づいてくる。
電車が揺れるたびに、あと数センチ。
いや、もうほとんど当たりそうだった。
私は最初、少しだけ膝を引いた。
たぶん気づいていないだけだと思ったから。
でも、彼女はスマホを見たまま、脚を下ろす気配がない。
むしろ、私が避けたぶんだけ、さらに楽な姿勢になっていた。
こちらが縮こまっているのに、相手はどんどん広がってくる。
正直、かなり腹が立った。
「当たったら言えばいい」
そう思う人もいるかもしれない。
でも、公共の場で一番しんどいのは、この“ギリギリ迷惑”だと思う。
まだ当たってない。
でもずっと気になる。
まだ汚れてない。
でもこっちはずっと避けている。
相手は何も失っていないのに、こちらだけが神経を使っている。
私は横目で彼女を見た。
彼女は一瞬だけ、自分の靴の位置を見た。
見た。
確実に見た。
それなのに、またスマホに目を戻した。
その瞬間、私は「ああ、これは気づいていないんじゃない」と分かった。
分かっていて、やめないのだ。
私は口を開きかけた。
「すみません、足を下ろしてもらえますか」
そう言おうとした。
でもその時、ふと前方に目がいった。
少し離れたところに、杖を持った年配の男性が立っていた。
電車が揺れるたびに、吊り革を握る手が小さく震えていた。
彼女はそれにも気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、相変わらず脚を組んだままだった。
その時、私の中で怒りの方向が変わった。
これは、スニーカーがスラックスに当たるかどうかだけの話じゃない。
座席に座っているのに、さらに他人の空間まで奪っている。
しかも目の前には、立っているのがつらそうな人がいる。
だったら、私ができる一番静かな反撃はこれだと思った。
私は何も言わずに立ち上がった。
そして、その年配の男性に声をかけた。
「よかったら、こちらどうぞ」
男性は少し驚いた顔をした。
「いいんですか?」
「はい、次まで少しありますし」
そう言って席を譲った瞬間、隣の女性の表情が変わった。
私がいなくなったことで、彼女の横に座ったのは杖を持った男性。
さっきまで好き放題伸ばしていた足元の空間は、一気に狭くなった。
それでも彼女は、最初まだ脚を組んだままだった。
私は吊り革につかまりながら、真正面からその足を見た。
責めるようにではなく、ただ淡々と。
「その足、まだそのままですか?」と言わんばかりに。
すると、向かいに座っていたサラリーマンが小さく咳払いをした。
隣の女性が、ちらっと周囲を見た。
さっきまで誰も見ていないと思っていたのかもしれない。
でも、見ていた。
みんな、見ていた。
彼女はようやく脚を下ろした。
それも、かなり気まずそうに。
年配の男性は座り直して、小さく息を吐いた。
そして私に向かって言った。
「ありがとうございます」
その一言で、さっきまでのイライラが少し消えた。
私は「いえ」とだけ返した。
次の駅に近づいた時、彼女がまた少し脚を組もうとした。
その瞬間、向かいのサラリーマンがもう一度、わざとらしく咳をした。
彼女はピタッと止まった。
そして、そのまま膝をそろえて座り直した。
私は心の中で、思わず笑ってしまった。
怒鳴らなくてもいい。
揉めなくてもいい。
でも、失礼な人に合わせてこちらが小さくなる必要もない。
席を譲っただけ。
けれどその一手で、彼女が広げていた“自分勝手な空間”は一瞬で消えた。
降りる時、年配の男性がもう一度軽く会釈してくれた。
私はそのままホームに降りた。
スラックスは汚れていなかった。
気分も、さっきよりずっと軽かった。
あの女性に直接キレるより、よほどスッキリした。
公共の場所って、声の大きい人のものじゃない。
先に座った人だけのものでもない。
少し譲る人と、少し気づける人がいるだけで、空気はちゃんと変わる。
そして、気づかないふりをしていた人ほど、その空気の変化には勝てない。