「すみません、この人の家に行きたいんですが……」
道端で突然、90歳のおじいさんに声をかけられた。
手に握っていたのは、住所ではなく電話番号だけ。
正直、最初に思ったのは――
「え、知らんがな……」だった。
知らない人。
知らない電話番号。
知らない誰かの家。
しかもおじいさんは少し不安そうに立っていて、こちらをじっと見ている。
変な話に巻き込まれたらどうしよう。
間違った場所に連れて行ったらどうしよう。
そもそも私が関わっていい話なのか。
頭の中では、面倒くさい気持ちと警戒心がぐるぐる回っていた。
でも、そのおじいさんは小さな声で言った。
「友達に会いに来たんです」
その一言で、私は足を止めた。
電話番号だけを頼りに、90歳のおじいさんがひとりで友達に会いに来た。
しかも、ここまで2時間かけて来たという。
その瞬間、さっきまでの「知らんがな」は、すっと消えた。
私は番号に電話をかけ、相手に事情を説明した。
住所を聞き、場所を確認し、おじいさんに伝える。
するとおじいさんは、子どものようにほっとした顔で笑った。
「よかった。会えるんですね」
その顔を見たら、もう放っておけなかった。
私は「一緒に行きましょう」と言って、おじいさんの歩く速さに合わせて道を進んだ。
途中、おじいさんはいろいろ話してくれた。
昔のこと。
友達との思い出。
最近はなかなか会えなくなったこと。
歩くスピードはゆっくりだったけれど、その声はとても明るかった。
90歳になっても、会いたい友達がいる。
そして、2時間かけてでも会いに行こうと思える。
それって、なんて素敵なんだろうと思った。
ようやく目的の家に着いたとき、中から出てきたのは、同じように可愛らしいおじいさんだった。
ふたりは顔を見合わせた瞬間、ぱっと表情を明るくした。
手を上げて、まるで少年みたいに挨拶していた。
その姿を見た瞬間、胸がじんわり熱くなった。
私はただ道案内をしただけ。
でも、目の前には「長く生きた人だけが持っている友情」があった。
数日後、会社に一通の手紙が届いた。
差出人は、あのおじいさんだった。
中には丁寧なお礼の言葉と、可愛いクッキー。
その手紙を読んだ瞬間、私は思わず笑ってしまった。
最初は少し警戒していた自分が恥ずかしくなるくらい、最後まで全部が可愛い人だった。
道に迷っていたおじいさんを助けたつもりだった。
でも本当は、私のほうが大切なことを教えてもらっていた。
何歳になっても、会いたい人に会いに行くこと。
ありがとうをちゃんと伝えること。
友達を大事にすること。
私も、こんなふうに年を重ねたい。
そして今いる大切な人たちを、ちゃんと大事にしようと思った。