搭乗して五分もしないうちに、私はもう帰りたくなっていた。
窓側の席だった。
機内には、出発前独特のぬるい空気がこもっていて、シートベルト着用サインより先に、人の疲れが点灯していた。
頭上では荷物入れがばたばた閉まり、通路ではキャビンアテンダントが笑顔を貼りつけたまま、秒単位で客をさばいている。
私はスマホを機内モードにして、今日は何も起きずに飛んでくれ、と雑に祈った。
こういう時に限って、何か起きる。
斜め前の列にいた男が、やたら落ち着きがなかった。
三十代くらい。スーツは着ているが、きっちりしているというより、仕事に追われてそのまま飛び込んできた感じ。
彼は座るなりノートパソコンを取り出し、膝の上で開いた。まだドアも閉まりきっていないのに、指だけは異様に忙しい。
隣の女性が小さく眉をひそめた。
私も少し気になった。
でも、今どき珍しくもない。空港でも機内でも、仕事を手放せない人間は山ほどいる。私だって、他人のことは言えない。
問題は、その五分後だった。
最初に異変に気づいたのは、においだった。
何かが焦げる、嫌なにおい。
トースターの焼きすぎみたいな生ぬるい失敗臭ではない。もっと金属的で、乾いていて、鼻の奥に刺さるにおい。
私は顔を上げた。
同時に、前の方で誰かが「あっ」と短く声を上げた。
次の瞬間、男の足元から白い煙がふっと上がった。
一拍、機内の空気が止まった。
誰もまだ理解していない。
でも、理解するには十分だった。
「ラップトップ! ラップトップ!」
誰かが英語で叫び、男はようやく自分の膝の上を見た。
その顔が、見事なくらい青ざめた。
さっきまで仕事のできる人間ぶっていた指が、今は何を触ればいいかも分からず空をかいている。
煙は一気に濃くなった。
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