隣に住んでいるお兄さんは消防士だった。
背が高くて、爽やかで、
正直かなりイケメン。
でも私が最初に気になったのは顔じゃない。
洗濯物だった。
本当にいつ見ても干しっぱなしなのだ。
朝見てもある。
夜見てもある。
翌日見てもまだある。
ひどい時は丸二日。
風に揺れるTシャツを見ながら、
「この人ちゃんと帰ってきてるのかな」
と本気で心配になった。
後で知ったけれど、
消防士は夜勤もあるし、
災害や出動で予定通り帰れないことも多いらしい。
それでも見るたびに、
「あぁ、取り込んであげたいなぁ」
と思っていた。
そんなある朝だった。
私がベランダで洗濯物を干していると、
珍しく隣のベランダにお兄さんがいた。
「あ、おはようございます」
先に声をかけてきたのは向こうだった。
少し驚きながら、
「おはようございます」
と返した。
それが最初だった。
それから会えば挨拶をするようになった。
今日は暑いですね。
お仕事ですか?
お休みなんですか?
本当に何でもない会話。
でも少しずつ距離は縮まっていった。
ある日。
また例の洗濯物が二日間干しっぱなしだった。
久しぶりに顔を合わせた時、
私は笑いながら言った。
「干しっぱなしよくないですよー」
彼も苦笑いした。
「すみません」
そこで私は冗談半分で言った。
「もう私が取り込んであげるのに」
すると彼は笑った。
「じゃあ合鍵いりますね」
二人で笑った。
もちろん冗談。
私はそう思っていた。
その頃には、
彼の勤務時間も何となく分かるようになっていた。
夜中に出て行く日。
朝帰ってくる日。
疲れた顔の日。
それでも必ず挨拶してくれる日。
消防士って本当に大変なんだなと思った。
ある雨の日。
ベランダに出た私は思わず声を上げた。
「うわっ」
隣の洗濯物がまだ干してある。
天気予報は大雨。
私はスマホを握った。
でも連絡先なんて知らない。
結局その日はずっと気になって仕方がなかった。
そんな日が何度も続いた。
気付けば私は、
洗濯物よりも彼自身を気にしていた。
今日は帰ってるかな。
元気かな。
怪我してないかな。
そんなことばかり考えるようになっていた。
そしてある日の夜。
突然インターホンが鳴った。
ピンポーン。
時計を見ると20時過ぎ。
誰だろうと思いながらドアを開けた。
するとそこには、
隣のお兄さんが立っていた。
制服ではなく私服。
少し照れた顔をしている。
「どうしたんですか?」
そう聞くと、
彼はポケットから何かを取り出した。
鍵だった。
私は意味が分からなかった。
完全に固まってしまった。
すると彼は少し笑いながら言った。
「洗濯物なくても遊びに来てていいから」
頭が真っ白になった。
数秒。
何も言えなかった。
彼も少し緊張していた。
そして小さな声で続けた。
「本当はずっと渡したかったんです」
「洗濯物取り込んであげるって言われた日から」
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
まさか。
本当にまさか。
私はただ隣人として見ていたつもりだった。
でも違った。
彼も同じように、
少しずつ私を見てくれていたのだ。
それから数年経った。
今でも時々思い出す。
あの日、
ベランダに干しっぱなしの洗濯物がなかったら。
私が余計なお節介を焼かなかったら。
きっと私たちは今もただの隣人だった。
今ではベランダに揺れている洗濯物は二人分。
そしてその隣には、
小さな子ども服も増えた。
夫は今でも時々洗濯物を干しっぱなしにする。
そのたびに私は笑う。
「だから取り込んであげるって言ったでしょ」
すると夫は決まってこう返す。
「だから最初から合鍵渡したじゃん」
その言葉を聞くたびに、
私はあの日のベランダを思い出してしまう。
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]