ガス料金の請求書を開いた瞬間、私は本気で固まった。
「今回ご請求額 5,492,883円」
一、十、百、千、万、十万、百万……。
え、五百万?
一瞬、目の錯覚かと思った。
うちは普通の家庭だ。
温泉旅館でもない。
銭湯でもない。
家の中でこっそり工場を動かしているわけでもない。
なのに、請求書に書かれていた今回の使用量は、9071.6㎥。
前回は12.4㎥。
前年同月は15.2㎥。
どう見てもおかしい。
いや、おかしいなんてレベルじゃない。
数字だけ見たら、我が家だけで町内全部の風呂を沸かしたみたいな量だった。
私は請求書をテーブルに置き、何度も指でなぞった。
でも、数字は変わらない。
5,492,883円。
払えるわけがない。
というより、払う理由がない。
私はすぐにガス会社へ電話した。
「すみません、請求額が明らかにおかしいんですが」
すると電話口の担当者は、驚くでもなく、慌てるでもなく、淡々と言った。
「請求書はすでに発行されておりますので、期日までにお支払いください」
その瞬間、私は思わず黙った。
いやいや、そこじゃない。
支払いの話をする前に、この数字を見てくれ。
「前回が12.4㎥で、今回が9071.6㎥なんです。普通の家庭で、こんな使用量になりますか?」
私がそう聞くと、担当者は少し間を置いて言った。
「システム上は、そのように表示されております」
出た。
“システム上”。
まるでシステムがそう言えば、常識も現実も全部黙れと言われているみたいだった。
私は深呼吸して、声を落とした。
ここで感情的になったら負けだ。
「では、確認してください。メーター番号、検針記録、入力データ、全部です」
すると相手は、少し面倒そうな口調になった。
「ご家庭内で大量使用された可能性はございませんか?」
その一言で、私は逆に冷静になった。
大量使用?
五百万円分?
私は思わず笑ってしまった。
「大量使用って、五百万円分ですよ?うちは一般家庭です。もし本当に使ったと言うなら、今すぐ調査に来てください。私も知りたいです。うちのどこに、そんなガスを使う設備が隠れているのか」
電話口が、一瞬静かになった。
私はそのまま続けた。
「前回使用量、前年同月使用量、今回使用量を比べても、明らかに異常です。請求書の写真を今から送ります。
確認してください」
私はすぐに請求書を撮影した。
今回使用量。
前回使用量。
前年同月使用量。
請求額。
全部が一枚でわかるように撮った。
そして、会社に送った。
そのうえで、はっきり伝えた。
「このまま“システム上問題ありません”で済ませるなら、消費生活センターにも相談します。私は、明らかに異常な請求をそのまま払うつもりはありません」
そこから、空気が変わった。
さっきまで事務的だった担当者の声が、急に慎重になった。
「確認いたしますので、少々お時間をいただけますでしょうか」
私は電話を切って、テーブルの上の請求書を見つめた。
五百万円。
たった一枚の紙なのに、心臓に悪すぎる。
もし私が数字を確認せずに、「請求書だから正しい」と思い込んでいたら。
もし、こういう手続きが苦手な人だったら。
もし、高齢の人がこの請求書を受け取っていたら。
怖くなって、誰にも相談できずに悩んでいたかもしれない。
そう思ったら、だんだん怒りが込み上げてきた。
約三十分後。
スマホが鳴った。
さっきのガス会社だった。
担当者の声は、明らかに変わっていた。
「このたびは大変申し訳ございません。確認したところ、検針データの入力に誤りがございました」
やっぱり。
私は静かに聞き返した。
「つまり、私の使用量ではなかったということですね?」
「はい。正しい金額で再発行いたします。今回の請求書は破棄していただいて問題ございません」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
怒鳴りたい気持ちもあった。
でも、それより先に思った。
確認してよかった。
黙って払わなくてよかった。
“システム上”という言葉に負けなくてよかった。
数字は、いかにも正しそうな顔をしている。
請求書に印刷されているだけで、なぜか本物に見える。
でも、数字だって間違う。
システムだって間違う。
人が入力する以上、あり得ないミスも起こる。
だから、おかしいと思ったら黙ってはいけない。
その後、正しい金額の請求書が再発行された。
いつも通りの、普通の金額だった。
私はそれを見て、心底ほっとした。
そして、あの五百万円の請求書をもう一度見返して、思わずつぶやいた。
「数字は人を驚かせる。でも、常識までは騙せない」
たった一枚のガス料金請求書に、危うく心臓を止められるところだった。
でも今回は、泣き寝入りしなかった私の勝ち。
五百万円の請求は、きれいに消えた。