仕事帰りの金曜の夜。
私は一人で一蘭に入った。
一週間がやっと終わって、もう何も考えたくなかった。
誰とも話さず、ただ静かにラーメンを食べて、替え玉までして帰る。
それだけを楽しみにしていた。
店内はほぼ満席。
あの仕切りのある席に案内され、私は荷物を足元に置いて、食券を出した。
周りから聞こえるのは、麺をすする音と、店員さんの小さな声だけ。
この独特の静けさが、私はけっこう好きだった。
ようやく落ち着ける。
そう思った、その時だった。
コン。
隣の仕切りが、軽く叩かれた。
私は一瞬、手を止めた。
気のせいかなと思ったけれど、今度は仕切りの下から、すっと一枚の紙が差し込まれてきた。
私は反射的にそれを手に取った。
そこには、赤いペンでこう書かれていた。
「声を出すな。トイレに来い」
……え?
私は固まった。
ラーメン屋で、隣の席から、突然こんな紙を渡されることなんてある?
しかも、「声を出すな」?
「トイレに来い」?
怖すぎる。
意味がわからない。
私は紙を持ったまま、そっと隣を見た。
でも仕切りがあるから、顔は見えない。
ただ、下のほうから少しだけ見えた腕が、かなり大きかった。
黒い服。
ゴツい手。
そして、無言。
私は一気に悪い想像ばかりしてしまった。
変な人?
脅し?
宗教の勧誘?
何かのドッキリ?
それとも、本当に危ない人?
心臓がドクドク鳴り始めた。
ここは一蘭。
普通の店よりも静かで、席も区切られている。
店員さんは奥にいるし、大声を出せば、逆に店中の視線を集める。
助けを呼びたいけれど、何をどう説明すればいいのかもわからない。
「隣からトイレに来いって紙が来ました」
そんなこと言ったら、店中がざわつくに決まっている。
私はスマホを握った。
何かあったら、すぐ通報できるように。
その時、隣の人が立ち上がった。
チラッと見えた。
黒いキャップ。
大きな体。
ヒゲ。
正直、かなり怖そうな見た目だった。
その人は何も言わずに、トイレのほうへ歩いていった。
そして去り際に、もう一度だけ仕切りをトントンと叩いた。
まるで、
「来い」
と言われているみたいだった。
無理。
絶対無理。
私はその場から動けなかった。
ラーメンどころではなかった。
目の前に湯気の立つ丼があるのに、味なんてまったく想像できない。
すると、後ろのほうから小さな笑い声が聞こえた。
女子高生らしき二人が、こっちを見て、慌てて目をそらした。
向かい側のサラリーマンも、妙に不自然な動きをしている。
私を見る。
すぐ目をそらす。
また見る。
また目をそらす。
……何?
何なの?
私はますます怖くなった。
もしかして、私だけ何か仕掛けられている?
それとも、もう何かされている?
背中に冷たい汗が流れた。
その瞬間だった。
椅子から少し腰を浮かせた時、背中が妙にスースーした。
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