「たった600メートル乗っただけで、ここまで“客じゃない扱い”されるんだ」
駅から実家までは、距離にして600メートルほどでした。
元気な人なら、歩ける距離かもしれません。
でも、その日一緒にいた母は、杖をついていました。
寒さで足元も悪く、段差の多い道を歩かせるのはどう考えても無理でした。
だから私は、駅前からタクシーに乗りました。
ただ、それだけのことです。
ドアが閉まり、私は行き先を告げました。
「〇〇町の〇〇までお願いします」
返事はありませんでした。
「はい」も「分かりました」もなし。
バックミラー越しに見えた運転手の顔は、明らかに不機嫌でした。
短距離だと分かった瞬間、空気が変わったのが分かりました。
母が小さな声で言いました。
「すみません、この先を左にお願いします」
それでも運転手は無言。
もう一度、母が遠慮がちに言っても、返事はありません。
車内に重たい沈黙が落ちました。
母は杖を握りしめたまま、少し肩をすぼめていました。
私はその姿を見ながら、胸の奥がじわじわ冷えていくのを感じました。
数分後、実家の近くに着きました。
ブレーキがかかり、車が止まりました。
運転手は振り返りもせず、たった一言だけ言いました。
「500円」
それだけでした。
「着きました」もなし。
「足元に気をつけてください」もなし。
年寄りの母が降りるのに、気遣う様子すらありませんでした。
私はまだ黙っていました。
短距離で機嫌が悪いだけなら、もうさっさと降りようと思っていたからです。
でもその時、運転手が小さく鼻で笑いました。
そして、聞こえるか聞こえないかの声で言ったのです。
「……ほんと、こういう客な」
母の肩が、びくっと震えました。
その瞬間、私の中で何かが完全に切れました。
私は低い声で言いました。
「今、何て言いました?」
運転手は面倒くさそうに振り返りました。
「別に」
その顔を見て、私はもう話し合う必要はないと思いました。
私はスマホを取り出し、録画を始めました。
その瞬間、運転手の顔色が変わりました。
「撮るなよ」
私は冷静に返しました。
「撮られたくないことをしているから困るんですよね」
運転手は舌打ちしました。
「文句あるなら、ここで降りればいいだろ」
そこは交差点の手前でした。
後ろには車もいました。
母の足では、そんな場所で安全に降りられるわけがありません。
私はスマホを向けたまま言いました。
「高齢の乗客を危ない場所で降ろそうとしたことも、全部記録します」
運転手の表情が固まりました。
さっきまでの強気な態度が、一気に消えていきました。
「たかがワンメーターで偉そうに」
その一言で、私は確信しました。
やっぱり短距離だからだったのだと。
たった500円の客だから、雑に扱っていいと思ったのだと。
私は母を見ました。
母は下を向いたまま、何も言いませんでした。
その姿を見たら、怒りより悔しさが込み上げてきました。
私は運転手に言いました。
「母を怖がらせたこと、会社に正式に伝えます」
運転手は黙りました。
そして何も言わず、車を実家の前まで動かしました。
停車してから、ようやく小さな声で言いました。
「……すみません」
でも、それが反省から出た言葉ではないことくらい分かりました。
録画されたから。
会社に言われると思ったから。
面倒になるのが嫌だったから。
ただ、それだけの謝罪でした。
私は料金を払い、領収書を受け取りました。
車番も、時間も、発言も、全部残しました。
母を支えて家に入ると、母がぽつりと言いました。
「私ね、慣れてるの」
私は思わず母を見ました。
「年を取るとね、話しかけても返事してもらえないこと、増えるのよ」
その言葉が、一番つらかったです。
慣れていいわけがありません。
短い距離を乗ることは、迷惑ではありません。
足の悪い人がタクシーを使うことは、わがままではありません。
500円でも、ちゃんと料金を払っている客です。
その夜、私はタクシー会社に正式に連絡しました。
領収書の写真。
車番。
乗車時間。
そして録画。
全部まとめて提出しました。
数日後、会社から連絡がありました。
「当該乗務員については、現在出勤停止のうえ事実確認を行っています」
さらに、運転手本人は謝罪を希望していると言われました。
私は断りました。
私が欲しかったのは、形だけの謝罪ではありません。
同じことを、他の高齢者や体の不自由な人に二度としないことでした。
会社の担当者は最後に言いました。
「記録を確認したところ、本人も発言を認めています」
それを聞いた時、私は静かに思いました。
証拠は怒鳴りません。
言い返しもしません。
でも、一番逃げ道をなくします。
母は後日、少しだけ笑って言いました。
「あの人、もう誰にもあんな言い方できないね」
私はうなずきました。
たった600メートル。
たった500円。
でも、人を雑に扱っていい理由にはなりません。
短距離だからと見下したその態度は、しっかり記録に残りました。