「犬を飼いたいなら、これに署名して」
夫が差し出してきたのは、相談でも約束でもありませんでした。
それは、まるで私を試すために作られたような、冷たい紙でした。
私はずっと犬を飼うのが夢でした。
子どもの頃から、散歩している犬を見るたびに足を止めてしまうほど好きで、結婚して生活が落ち着いたら、いつか小さな家族として迎えたいと思っていました。
だからその日、私は少し勇気を出して夫に話しました。
「そろそろ犬を飼うこと、考えてみない?」
すると夫は、驚くほど冷静な顔で言いました。
「いいよ。ただし条件がある」
私は一瞬、前向きに考えてくれているのだと思いました。
でも次の瞬間、夫はテーブルの上に二枚の紙を置きました。
そこには細かい文字で、びっしりと条件が書かれていました。
電気代として毎月二万円を支払うこと。
犬用の冷蔵庫を置くなら、さらに毎月千円支払うこと。
キッチンに犬を入れないこと。
犬が使った食器はキッチン以外で洗うこと。
散歩から帰ったら、家の中を歩かせる前に必ず足を洗うこと。
風呂場で犬を洗ったら、床と排水口をすぐに掃除すること。
犬の臭い、鳴き声、騒音がないようにすること。
犬によって家、家具、車両が傷つけられた場合、修理費用はすべて私が負担すること。
読み進めるたびに、胸の奥が冷えていきました。
そして最後の一文で、私は息が止まりました。
「何があっても死ぬまで世話をすること」
もちろん、犬を迎えるなら責任を持つべきです。
命を預かるのだから、簡単な気持ちで飼ってはいけないことも分かっています。
でも、この紙に書かれていたのは、命への責任ではありませんでした。
夫が私を縛り、支配し、少しでも失敗したら責めるための“証拠”でした。
私は紙を持つ手が震えました。
「ここまで書く必要ある?」
そう聞くと、夫は平然と言いました。
「お前が飼いたいって言ったんだろ。責任取れよ」
私は何とか落ち着こうとしました。
「犬は生き物だから、鳴くこともあるし、毛も抜けるし、多少汚れることもあるよ。それを全部ゼロにするのは無理だよ」
すると夫は、鼻で笑いました。
「躾ければ犬は鳴かなくなる。そんな犬、たくさんいる」
その言い方に、私は胸がざわつきました。
「鳴かない犬なんて、機械じゃないんだから……」
私がそう言いかけた瞬間、夫は低い声で言いました。
「じゃあ、お前の口も塞ごうか?」
時間が止まったような気がしました。
犬の話をしていたはずでした。
でも本当は、犬の話ではなかったのです。
私はその瞬間、ようやく分かりました。
この人は、私の夢が気に入らないのではない。
私が自分の意思で何かを望むこと自体が、気に入らなかったのだと。
その場で言い返したかった。
「ふざけないで」と怒鳴りたかった。
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