「母さん呼ぶからな!」
そう言って、彼は私の目の前でスマホを握りしめた。
まるで、私を裁くための証人でも呼ぶかのように。
その日の夜、私は揚げ物をしていた。
油はバチバチと跳ねていた。
子どももいるわけでもないのに、なぜか私はいつも急いでいる。
そのとき、突然ガスコンロの火が消えた。
スイッチを押してもつかない。
油は熱いまま。
このまま放置すれば危ない。
私は呼んだ。
「ちょっと来て!」
返事はゲームの効果音の向こうから。
「今行くー」
来ない。
もう一度。
「火、止まった!」
「うん、ちょっと待って」
来ない。
三度目。
四度目。
五度目。
「今行くって言ってるだろ」
最後はそう言われた。
私は立ち尽くした。
油が冷めていく音だけがキッチンに響いていた。
その瞬間、何かが切れた。
怒りというより、諦めだった。
鍋を持ち上げ、そのままシンクに流した。
ジュッという音がした。
エプロンを外し、財布だけ持って家を出た。
一人でステーキを食べた。
ビールも頼んだ。
不思議なくらい、怒ってはいなかった。
ただ、「もういいや」と思っただけ。
翌朝、彼は何事もなかったように聞いてきた。
「靴下どこ?」
私は床を指さした。
「そこ。」
それだけ。
朝ごはんはコンビニで買った。
彼の分は作らなかった。
頼まれてもいない。
怒っていない。
ただ、やめただけ。
その日の夜。
彼は私の目の前で電話をかけた。
「母さん?ちょっと聞いてくれよ。あいつさ、急にキレてさ。鍋投げて、飯も作らないし、意味わかんないんだよ」
わざとらしくため息までつけて。
そして私を見て言った。
「母さん呼ぶからな!」
脅しのつもりだったのだろう。
長年、「長男」という立場で甘やかされてきた自信があったのかもしれない。
数時間後、義母が来た。
客間の空気が重くなる。
「どういうこと?」
最初の視線は私に向いていた。
彼が先に口を開く。
「急に怒り出してさ。鍋投げて、出て行ってさ。普通じゃないだろ?」
私は立ったまま言った。
「五回、呼びました。」
空気が止まる。
「揚げ物中でした。油が跳ねていました。
ガスが止まりました。」
彼が口を挟む。
「でも俺は――」
義母が鋭く言った。
「最後は?」
私は淡々と答えた。
「“これ終わったら”と言われました。」
沈黙。
義母の顔色が変わった。
そして次の瞬間、声が響いた。
「情けない!!」
彼が固まる。
「揚げ物中って分かっててゲーム!?あんた何様なの!」
「でも、俺は……」
「でもじゃない!!」
彼は言葉を失った。
義母はさらに畳みかける。
「五回も呼ばれて動かない?それで嫁が悪いって言うの?甘えるのもいい加減にしなさい!」
彼の顔が赤くなる。
義母ははっきり言った。
「こんな男なら離婚されても文句言えない!」
部屋が静まり返る。
彼は「は?」と小さく漏らしたが、続かなかった。
義母は続けた。
「私の育て方が間違ってたわ。家事は誰かがやるものだと思ってるんでしょ?」
そして、きっぱりと言った。
「今すぐ謝りなさい。」
彼は黙る。
「謝りなさい!」
小さく、震える声。
「……ごめん。」
義母はキッチンを指差した。
「そして、今からあんたが揚げ物作りなさい。」
彼は動かない。
「立ちなさい!」
彼は立ち、キッチンへ向かった。
不慣れな手つきで鍋を出す。
油の量も分からず、立ち尽くしている。
初めて見る姿だった。
義母が私の方を向いた。
「私はあなたの味方よ。」
私は首を振った。
「私は怒っていません。」
本当に、怒っていなかった。
ただ、もう便利な人をやめただけ。
キッチンから、不安定な油の音が聞こえる。
彼はまだ戸惑っている。
私は座ったまま、それを見ていた。
助けなかった。
口も出さなかった。
その夜、初めて私は何もしなかった。
それが、私の反撃だった。
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