そんな場所で、スマホを回しながら踊る人がいる。
通路の真ん中を使い、棚の前を背景にし、店内の空気ごと「撮れる空間」に変えてしまう。
その瞬間、強い違和感と嫌悪感が走る。ここはスタジオじゃない。テーマパークでもない。ましてや、「日本らしい雰囲気」を切り取って再生数を稼ぐための舞台でもない。
撮っている本人にとっては、ほんの数十秒の動画なのかもしれない。
でも、その数十秒のために邪魔される側はたまらない。
買い物をしている人は動線を塞がれ、視線を奪われ、落ち着いて商品を選ぶ時間を壊される。急いでいる人もいる。仕事帰りで疲れている人もいる。子どもを連れている人も、高齢の家族のために買い物をしている人もいる。
その全員が、誰かの「面白い動画」のために、ほんの少しずつ我慢を押しつけられる。
そして、その場でいちばん困るのは店員だ。
注意するべきか、見過ごすべきか。声をかければトラブルになるかもしれない。強く言えば「感じが悪い」と言われ、放っておけば他の客に迷惑がかかる。
動画を撮る側は、撮って終われば去っていく。けれど、その後に残る空気の悪さも、客への対応も、店内の秩序も、全部現場の人が引き受けることになる。
笑っているのは撮る側だけで、後始末をするのはいつも別の誰かだ。
こういう光景を見るたびに思う。
日本の「日常」は、あまりにも軽く扱われすぎていないか、と。
街も、店も、電車も、住宅街も、本来は誰かが生活している場所だ。そこには働く人がいて、急いでいる人がいて、静かに一日を終えたい人がいる。
それなのに、外から見れば「映える背景」「珍しい文化」「撮って拡散できる素材」として消費されてしまう。
生活の場が、暮らしの場としてではなく、コンテンツの材料として扱われる。
その感覚こそが、いちばん不快だ。
問題は国籍でも、肌の色でもない。
本当に問われるべきなのは、誰かの生活の場を、自分の注目や再生数のために使っていいと思ってしまう感覚だ。
ただ、どこの誰であっても、迷惑行為は迷惑行為だ。文化の違いで片づけていい話でもないし、「旅行中だから」「少し踊っただけだから」で流していいものでもない。
自由に撮る権利ばかりが語られるけれど、静かに買い物をしたい人の自由、安心して働きたい店員の自由は、いったい誰が守るのだろう。
コンビニは、誰かの生活の一部だ。
店員にとっては職場であり、地域の人にとっては日常を支えるインフラであり、多くの人にとっては疲れた夜や慌ただしい朝をつなぐ場所でもある。
その空間に入り込み、空気を乱し、周囲に負担をかけながら、それでも「たったこれくらい」と言うのなら、あまりにも想像力が足りない。
たったこれくらい、で済まないから、人は不快になる。たった数十秒でも、そこにいた人の日常は確かに乱される。
日本を舞台装置みたいに使わないでほしい。
コンビニは観光の背景じゃない。
そこには、誰かの急いだ朝があり、くたくたの夜があり、言葉にされない小さな生活が積み重なっている。
本当に守るべきなのは、映える一瞬でも、バズる動画でもない。
そこで生きている人たちの、静かで普通の暮らしのほうだと思う。
引用元:https://twitter.com/26ers_bp115/status/2044012095734468873,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]