あの日の光景が、頭から離れなかった。
帰り道の途中だった。
仕事の合間に外に出て、たまたま見かけただけ。
でも、ただの“たまたま”で済ませられる内容じゃなかった。
紫のランドセル。
ひとつ結びで、メガネの女の子。
その子の後ろで、二人の子どもが笑っていた。
最初は、じゃれ合いかと思った。
でも違った。
ランドセルを掴んで、何度も揺らしている。
明らかに、強い力で。
そのうち、中から水が漏れたのか、
背中がどんどん濡れていった。
「うわ、お漏らし〜!」
その声で、完全に空気が変わった。
笑い声。
からかう声。
女の子は、必死に言っていた。
「違う、水筒!」
でも、誰も聞いていなかった。
次の瞬間。
ランドセルごと持ち上げて、地面にひっくり返した。
中身が全部飛び出した。
教科書、ノート、筆箱。
そして、タブレット。
その瞬間、胸の中がざわっとした。
——やりすぎだろ。
でも、足が動かなかった。
声も出なかった。
周りに大人はいた。
でも、誰も止めなかった。
私も、その中の一人だった。
結局、私は何もできなかった。
そのまま仕事に戻った。
でも、ずっと引っかかっていた。
あの子の顔。
あの声。
「違う、水筒」
あれが頭から離れなかった。
夜になっても、寝る前になっても、消えなかった。
——このままでいいのか?
何もしてないのに、見てただけなのに、
なぜか自分が責められている気がした。
そして、スマホを手に取った。
あの場所。
あの時間。
思い出せる限り、全部メモした。
ランドセルの色。
髪型。
やり取りの内容。
そして次の日。
住吉区の学校を調べて、片っ端から問い合わせた。
「昨日、このようなことがありました」
最初は、少し戸惑われた。
でも、内容を伝えると、対応が変わった。
「確認します」
それだけだったけど、確かに受け取ってもらえた。
さらに、現場付近の防犯カメラも確認した。
近くの店舗、マンション。
「この時間帯、映っている可能性がありますか?」
何件か回って、ようやく一つ、可能性のある場所を見つけた。
その情報も、学校に伝えた。
正直、ここまでやるつもりはなかった。
でも、一度動き始めたら止まれなかった。
数日後。
知らない番号から電話が来た。
「〇〇小学校です」
あの時連絡した学校だった。
少しだけ、息を飲む。
「先日のお問い合わせの件ですが」
一拍置いて、続けた。
「事実確認が取れました」
その一言で、体の力が抜けた。
「関係児童への指導と、保護者への対応を行っております」
淡々とした説明だった。
でも、それで十分だった。
「また、端末機器についても確認し、必要な対応を進めています」
——タブレット。
やっぱり問題になっていた。
「情報提供、ありがとうございました」
電話が切れたあと、しばらく動けなかった。
あの日、何もできなかったことは変わらない。
でも。
見て見ぬふりをしなかったことだけは、
無駄じゃなかったと思えた。
あの子が、これ以上同じことをされないなら。
少しでも状況が変わったなら。
それでいいと思った。
スマホを置いて、深く息を吐く。
あのとき、声をかけられなかった自分は変えられない。
でも、そのあと動いた自分は、
少しだけ、間違ってなかったと思えた。
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