満席ののぞみだった。
通路にも人が立っていて、自由席は完全に埋まっているのが見えた。
やっと取れた指定席。
その席に向かって歩いたとき、違和感に気づいた。
——誰か、座っている。
しかも、親子だった。
子どもは窓側でゲームをしていて、母親は当たり前の顔で隣に座っている。
私は一瞬立ち止まった。
間違いかと思って、もう一度チケットを見た。
号車、列、席番号。
間違っていない。
ゆっくり近づいて、声をかけた。
「すみません、ここ私たちの席なんですが」
母親はちらっとこちらを見て、ため息をついた。
「子供がここがいいんです」
その言い方が、あまりにも自然で。
まるで、こちらが無理を言っているかのようだった。
「でも、指定席なので…」
そう言いかけた瞬間、被せるように言われた。
「我慢できません?」
一瞬、言葉が止まった。
さらに、周りに聞こえるような声で続けた。
「そんなに冷たくしなくてもよくないですか?」
その一言で、周囲の空気が変わった。
何も知らない乗客が、ちらちらこちらを見る。
まるで、私が悪者みたいに。
——ああ、そういうやり方ね。
私はそれ以上何も言わなかった。
感情でぶつかったら、負ける。
代わりに、もう一度だけ座席番号を確認した。
そして、静かに手を伸ばして、呼び出しボタンを押した。
「え?」
母親の表情がわずかに変わる。
数十秒後、車掌がやってきた。
「どうされましたか?」
私は落ち着いた声で言った。
「この席、私たちの指定席なんですが」
車掌はすぐに状況を理解して、母親の方に向き直った。
「お客様、こちらの指定席券を拝見してもよろしいですか?」
その瞬間だった。
母親の顔が、はっきりと変わった。
「え、あの…その…」
さっきまでの強気な態度は消えていた。
「自由席で…混んでて…」
車掌の声が少しだけ厳しくなる。
「こちらは指定席ですので、指定席券をお持ちでない場合はご利用いただけません」
周囲の視線が、一斉に母親に向いた。
さっきまで私に向いていた視線とは、明らかに違う。
子どもが不安そうに母親を見上げる。
母親は小さく舌打ちして、立ち上がった。
「……行くよ」
そのまま、子どもの手を引いて通路に出ていった。
誰も何も言わなかった。
でも、その沈黙がすべてだった。
車掌が軽く頭を下げた。
「お待たせいたしました。どうぞお座りください」
「ありがとうございます」
私はそう言って、ようやく席に座った。
背もたれに体を預けた瞬間、ふっと力が抜けた。
さっきのやり取りが、頭の中でゆっくり再生される。
「冷たい」って、なんだろう。
ルールを守ることが、冷たいのか。
指定席に座ることが、悪いことなのか。
私は窓の外を見た。
流れていく景色は、何も変わらない。
でも、ひとつだけはっきりしている。
「譲る優しさ」と、「押し付けられる我慢」は、全く別のものだ。
あの席は、最初から私たちの席だった。
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