私の予備に買っておいた新品のピンクの洗面器に、義父はわざと排尿した。
しかも、自分で取らずに義母に物置から持ってこさせた。
朝の廊下の真ん中に、それは置かれていた。
私と目が合った瞬間、義父はゆっくり口元を歪めた。
——失敗じゃない。完全に、嫌がらせだった。
先週、2泊3日のショートステイから帰ってきたばかりだった。
帰るなり、
「寿司が食べたい」
「サイダー飲みたい」
「甘い物が欲しい」
夫が静かに言った。
「今はダメだ。」
その瞬間、義父の顔が変わった。
黙り込んだかと思えば、翌朝これだ。
私は震える声で言った。
「何してるんですか?」
返ってきたのは怒鳴り声だった。
「もううちに来るな!」
「あんたみたいな嫁はいない!」
「おかずなんか持ってこなくていい!」
「ゴミは山に捨てるからいい!」
一気にまくし立てる。
呂律ははっきりしている。
目も濁っていない。
分かって言っている。
その時、小さな声がした。
「……やめなさいよ……」
義母だった。
俯いたまま、ほとんど聞き取れないほど小さな声。
義父はすぐに睨みつけた。
「お前は黙ってろ!」
空気が凍る。
その一瞬で分かった。
この家の中で、ずっと誰が怒鳴り、
誰が黙らされてきたのか。
夫は黙っていた。
重たい沈黙。
義父はまだ勝った顔をしている。
その時だった。
夫が、ゆっくりと口を開いた。
「延長する。
」
義父が固まる。
「ショートステイ、延ばす。手続きする。」
「な、何言ってるんだ…そんなことできるわけないだろ」
さっきまで怒鳴っていた声が、わずかに震えている。
夫は視線を逸らさない。
「できる。もう決めた。」
「俺は帰るぞ!聞いてるのか!」
声が裏返る。
でも、誰ももう怯えない。
私は何も言わなかった。
ただ、あのピンクの洗面器を持ち上げた。
軽いはずなのに、やけに重かった。
数日後、義父は再びショートステイに戻った。
「すぐ帰るからな」と強がりながら。
家が、静かになった。
怒鳴り声がない朝。
命令のない台所。
義母はソファに座ったまま、ぼんやりしていた。
「天ぷら、食べますか?」
私はそう言った。
義母は一瞬驚いた顔をして、
それから小さく頷いた。
「……ありがとう。」
初めて聞いた気がした。
海老も、茄子も、かぼちゃも揚げた。
三人で食卓についた。
誰も怒鳴らない。
誰も急かさない。
ただ、サクッという音だけが響く。
私は思った。
もう二度と、踏みつけられたままではいない。
あのピンクの洗面器の前には、戻らない。
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