あの時の空気は、今でもはっきり覚えている。
朝の通勤ラッシュ。
車内はぎゅうぎゅうで、ドア付近には人が押し込まれていた。
そんな中、目に入ったのがあの席だった。
二人掛けのシート。
片側には女性が座っていて、もう片側には大きめのカバンが置かれている。
明らかに、座れるスペースがある。
でも、誰も座れない。
理由は単純だった。
“詰めないから”。
しかも、そのすぐ前には小さな子どもが立っていた。
揺れる車内で、必死に手すりを握っている。
それを見て、正直イラっとした。
最初は、ただ見ているだけだった。
誰かが声をかけるだろうと思っていたから。
でも、誰も言わない。
見て見ぬふりをしている。
だから私は、あえて声をかけた。
「すみません、詰めてもらえますか?」
女性は反応しなかった。
イヤホンをしているわけでもない。
ただ、前を向いたまま。
もう一度、少しだけ強めに言った。
それでも、無視。
その時、周りの空気が変わり始めていた。
“あ、この人、わざと無視してるな”
そんな空気。
そこで私は、さっきよりもはっきり言った。
「混んでるの、見たら分かりますよね?」
その瞬間だった。
車内の視線が、一斉にその女性に向いた。
逃げ場がなくなったのか、女性は小さく舌打ちのような仕草をして、無言でカバンをどけた。
そして、少しだけ奥に詰める。
空いた席に、さっきの子どもが座った。
周りからは、誰も何も言わない。
でも、空気は明らかに変わっていた。
“やっとか”
そんな空気。
私は何も言わず、そのまま立っていた。
正直、少しだけスッキリしていた。
最初からそうしてくれれば、こんな空気にならなかったのに。
ただ、それで終わる話だと思っていた。
——でも、そのあとだった。
電車が少し空いてきた頃、隣に立っていた別の女性が、小さな声で言った。
「あの人、窓側が怖い人かもしれないですよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
そう聞き返すと、彼女は続けた。
「前に聞いたことあって…痴漢とか、逃げづらいから、あえて詰めない人もいるみたいで」
その言葉を聞いた瞬間、さっきの光景が頭の中で少し変わった。
あの女性は、ただ自分勝手だったのか。
それとも、何か理由があったのか。
もちろん、だからといって無視していいとは思わない。
声をかけられたら、一言くらい返せばいい。
でも同時に、私は思った。
“見えているものだけで、全部判断してたかもしれない”
さっきまでの自分は、完全に“正義側”だった。
ルール的にも、マナー的にも、間違っていないと思っていた。
でも、本当にそれだけだったのか。
正直、今でも答えは出ていない。
あの時の対応が間違っていたとも思わないし、
あの女性を完全に悪いとも言い切れない。
ただ一つ言えるのは、
あの瞬間、私は「正しいことをした」と思っていた。
でも今は、少しだけ違う見方もできるようになった。
それだけだ。
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