「“入ってくるな!”と叫んだのに、夫は産房に入ってきた。」
あの瞬間、目が合った。
痛みで視界が滲んでいる中、はっきりと夫の顔が見えた。
何かが壊れる音がした気がした。
出産前、私は何度もお願いしていた。
どんなに周りに言われても、絶対に入らないでほしい、と。
泣き叫ぶ姿も、取り乱す姿も、見せたくなかった。
失禁するかもしれない。理性を失うかもしれない。
それを“共有”なんてされたくなかった。
夫は「わかった」と言った。
少し残念そうだったけれど、尊重する、と約束した。
それなのに。
陣痛の合間、ドアが開き、夫が入ってきた。
「大丈夫、俺がついてる」
私は叫んだ。
「入ってこないで!」
でも、痛みと混乱で声は掻き消された。
その後のことは、断片的にしか覚えていない。
叫んだこと。
取り乱したこと。
自分でも信じられない姿を晒したこと。
そして、出産が終わったあと。
夫は笑って言った。
「一生に一度の瞬間を共有できてよかった。本当にありがとう」
私は、冷たく笑った。
ありがとう?
よかった?
私の意志は、どこにあった?
退院してからも、涙は止まらなかった。
思い出すたびに胸が締め付けられる。
羞恥と怒りと、裏切られた感覚。
夫は「悪かった」と言った。
でもそのあとに続いたのは、
「でも、そんなに大げさ?」
その言葉で、何かが決定的に終わった。
ある日、夫が何事もなかったかのように子どもをあやして笑っていた。
穏やかな父親の顔。
その光景を見た瞬間、私は震えた。
私が壊れた一ヶ月を、彼はもう過去にしていた。
私は一人で区役所に行った。
離婚届をもらい、静かに記入した。
ペンを持つ手は、不思議なくらい震えなかった。
感情はもう、怒りではなかった。
ただ、終わりだと理解していた。
その日の夕方。
夫が仕事から帰ってきた。
テーブルの上に、署名済みの離婚届を置いておいた。
しばらくして、紙を手に取る音がした。
「……なに、これ」
声が、初めて揺れた。
「本気なのか?」
私は頷いた。
「そんなに大げさだと思うなら、ここまで来ないよ」
彼は初めて、青ざめた顔をした。
「俺は、支えたかっただけだ」
「あなたは、共有したかっただけ。
でも私は、尊重してほしかった。」
沈黙が落ちた。
「やり直せないのか」
私は静かに答えた。
「あなたと一緒に未来を見ることは、もうありません。」
そして、最後に言った。
「私の身体は、私のものだ。」
出産は奇跡だと言う。
でも、どんな奇跡よりも大事なのは、意志だ。
私はもう、あの日の産房には戻らない。
そして、約束を破る人と人生を歩くことも、選ばない。
これは出産の話ではない。
尊重の話だ。
そして私は、ようやく自分を取り戻した。
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]