母が急死したのは、ある平日の朝だった。
病院から電話が来て、
「お母様が…」と言われた瞬間、
頭の中が真っ白になった。
私は震える手で夫に電話をした。
「お母さんが…亡くなった…」
涙で言葉が続かなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、
夫が言った。
「え、じゃあ今週末の旅行どうする?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「キャンセル?
キャンセル料かかるよね?」
胸の奥が、
ゆっくりと冷えていくのが分かった。
母が亡くなった。
でもこの人は、
旅行の心配をしている。
私は何も言えなかった。
葬儀の日。
私はほとんど記憶がない。
親戚が集まり、
父はずっと俯いたまま。
焼香の列が静かに続いていた。
その横で、夫は
何度も時計を見ていた。
そして小声で言った。
「まだ終わらないの?」
私は耳を疑った。
さらに夫は続けた。
「俺、明日仕事なんだけど」
周りの空気が一瞬凍りついた。
叔父がゆっくりこちらを見た。
でも私は何も言えなかった。
涙をこらえるのが精一杯だった。
葬儀が終わり、
親戚が帰り始めた頃。
夫がスマホを見ながら言った。
「旅行さ、来月に変更できるか
聞いてみる?」
その瞬間。
胸の奥で
何かが切れた。
静かに、
でも確実に。
私は夫を見た。
この人は今、
自分の妻が母を失ったことよりも
旅行の予定を気にしている。
私は初めて気づいた。
この人は、私の家族じゃない。
帰りの車の中。
夫は普通に話しかけてきた。
「キャンセル料さ、
半分くらい戻るかな?」
私は窓の外を見ながら思った。
母が亡くなった。
悲しい。
でもそれ以上に、
私は今まで
何を見てきたんだろう。
この人と結婚して、
何年も一緒にいて。
でも今日、
初めて本当の姿を見た気がした。
その夜。
実家で母の写真を見ていた。
母はいつも言っていた。
「美嘉、
幸せな結婚をしなさいね。」
私は写真を見ながら
静かに言った。
「ごめんね、お母さん。」
次の日。
夫が言った。
「旅行、どうする?」
私は答えた。
「うん。行けばいいよ。」
夫は少し驚いた顔をした。
「え?」
私はテーブルの上に
一枚の紙を置いた。
離婚届だった。
「旅行は行ってきていいよ。
」
そして続けた。
「でも、帰ってきても
もう家はないけど。」
母を失った日。
私はもう一つのことに気づいた。
この男と一生を過ごす必要はない。
それだけは、
はっきり分かった。