「見えてただろ!なんで閉めたんだ!」
2026年2月27日、夜。
東京ビッグサイト発の都営バスで、いきなりそんな怒鳴り声が響いた。
私はその時、前から三列目の席に座っていた。
外はもう暗く、車内の照明だけがやけに明るく感じる時間だった。
バスはほぼ満席。
イベント帰りらしい人や、仕事帰りの人が静かに座っていた。
ドアが閉まった瞬間だった。
後ろから一人の中年の男が駆け込んできて、閉まったドアの前で叫んだ。
「見えてただろ!なんで閉めたんだ!」
車内の空気が、一瞬で凍った。
私は思わず振り返った。
スーツ姿の中年の男だった。
息を切らしながら、運転席に向かって怒鳴っている。
正直に言うと、その人が並んでいたのかは分からない。
少なくとも私は、列に並んでいる姿は見ていなかった。
ただ、ドアが閉まった後に突然叫び出したのは確かだった。
運転手は少し驚いたようにミラーを見て、それからドアを開けた。
男は舌打ちしながら乗り込んできた。
「見えてたよな?普通」
車内の誰も、何も言わなかった。
男はそのまま運転席の近くに立ったまま、まだぶつぶつ文句を言っていた。
「客いるのに閉めるとかありえないだろ」
運転手は小さく「申し訳ありません」と言った気がする。
でも、はっきりとは聞こえなかった。
数秒の沈黙。
そのあと、運転手がマイクを取った。
「お客様にお知らせいたします。」
車内の全員が顔を上げた。
「現在、私は運転を続けられる精神状態ではありません。」
一瞬、意味が分からなかった。
「営業所に連絡を取り、判断を仰ぎます。」
車内がざわついた。
え?
どういうこと?
運転手は無線で営業所に連絡していた。
内容までは聞こえない。
でも数分後、再びマイクを取った。
「営業所より指示がありました。まず、体調の悪いお客様はいらっしゃいますか?」
誰も手を挙げない。
そりゃそうだ。
まだ五分も経っていない。
そして運転手は言った。
「このバスは運行を取り止めます。次のバスをご利用ください。
」
一瞬、静まり返った。
「次のバスの運賃は不要です。全員、降車をお願いいたします。」
結局、乗客全員が降ろされることになった。
私は少し呆れながらバスを降りた。
夜のバス停に、さっきまで車内にいた人たちが並ぶ。
寒い空気の中で、誰も最初は何も言わなかった。
でも、数秒後だった。
後ろにいた男性が、あの怒鳴った男に向かって言った。
「並んでなかったよね?」
男は振り返った。
「は?」
別の人も言った。
「ドア閉まってから来たよね。」
空気が少し変わった。
さっきまで黙っていた人たちが、ぽつぽつと言い始めた。
「怒鳴る必要あった?」
「普通に言えばよかったのに」
「結局、全員降ろされたじゃん」
男は何か言い返そうとした。
「いや、だって――」
その時、さっきの男性がはっきり言った。
「お前のせいだろ。」
その一言で、周りが一斉に静かになった。
誰も反論しなかった。
ただ、何人かが小さくうなずいていた。
男はしばらく立ったままだった。
でも、何も言えなかった。
さっきまであんなに怒鳴っていたのに。
結局、男は少し離れた場所に移動した。
私たちはそのまま次のバスを待った。
五分くらいして、次のバスが来た。
今度は誰も怒鳴らなかった。
全員、静かに列に並んで乗った。
さっきの男は、一番後ろに並んでいた。
誰も話しかけなかった。
ただ一つだけ思った。
あの人が、最初に怒鳴らなければ。
私たちは、もうとっくに家に向かっていたはずだ。