「ちょっと待ってくれ。」
その言葉が、思わず口から出た。
夜、なか卯で飯を食っていた時のことだ。
私はカウンター席に座って、うどんと丼を食べていた。
仕事帰りで腹も減っていたし、ただ静かに食事を済ませて帰るつもりだった。
隣には中年の男が座っていた。
特に気にもしていなかった。
その瞬間だった。
バシャッ。
温かい汁が、いきなり私の膝にかかった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
見ると、隣の男が丼を動かした拍子に、汁を思いきりこぼしていた。
私のズボンも、コートも、びしょ濡れ。
床にも汁が飛び散っていた。
私は思わず言った。
「ちょっと待ってくれ。」
普通なら、まず謝るだろう。
でも男は――
謝らなかった。
それどころか、こちらをちらっと見ただけで、また食事を続けようとした。
さすがにそれはない。
私はもう一度言った。
「いや、ちょっと…汁かかってるんですけど。」
その瞬間だった。
男は突然、スマホを取り出した。
そして――
カメラを回し始めた。
「は?」
思わず声が出た。
男はスマホをこちらに向けながら言った。
「この人、絡んできました。」
一瞬、意味が分からなかった。
絡んできた?
いや、汁かけたのそっちだろ。
周りの客も、ざわつき始めた。
店内の空気が少し重くなる。
男はスマホを構えたまま、私を撮り続けている。
まるで、自分が被害者みたいな顔をして。
その時、私は少しだけ冷静になった。
この状況、どう考えてもおかしい。
だから私は、男のスマホに向かって言った。
「それ回していいけどさ。」
男は黙って撮り続けている。
私は自分の膝を指差した。
「さっき汁ぶっかけたとこ、ちゃんと撮れてるよな?」
店内が一瞬、静かになった。
男の顔が少し止まる。
その時だった。
後ろの席にいた若い男が、ぽつっと言った。
「いや、さっき見てたけど…」
「そっちがこぼしてたよ。」
さらに別の客も言った。
「普通、先に謝るやろ。」
店の空気が変わった。
男はまだスマホを持っている。
でも、もう何も言わない。
その時、店員さんがやってきた。
状況を見て、一言だけ言った。
「お客様。」
そして、隣の男を見て言った。
「まず謝っていただけますか。」
男は、完全に黙った。
さっきまでカメラを向けていたスマホも、ゆっくり下がっていく。
結局、男は何も言わなかった。
ただ、小さく「すみません」とだけ言った。
店員さんがタオルを持ってきてくれて、床も拭いてくれた。
私は濡れたズボンを見ながら思った。
もし、最初に一言謝っていれば。
こんな空気にはならなかったのに。
でも一番不思議だったのは――
汁をぶっかけた本人が、
なぜか最初にカメラを回し始めたことだった。
本当に、変な夜だった。