9000円。
彼が払ったのは、それだけだった。
私が失ったのは、3万円と信用だ。
朝8時03分。
シャッターを上げた瞬間、目の前に白い車があった。
ぴったりと、私の車庫の前に。
一センチも出られない。
今日は大口の契約日だった。
三ヶ月かけて詰めてきた案件。
この一本で、今月の資金繰りが安定するはずだった。
クラクションを鳴らす。
反応なし。
車内は空。
110番する。
警察は慣れた様子で到着した。
写真を撮り、ナンバー照会をし、登録番号に電話をかける。
「出ませんね。」
そして、いつもの一言。
「レッカー移動はできません。」
理由は?と聞くと、
「緊急性が認められないので。」
緊急じゃない?
私の仕事は止まっている。
今日の契約は時間指定。
代わりはきかない。
8時20分。
取引先へ電話する。
「申し訳ありません、車が出せず、遅れます。」
数秒の沈黙。
その沈黙で、私はわかった。
「今回は見送らせてください。」
終わった。
9時05分。
ようやく車の持ち主が現れた。
コンビニの袋をぶら下げ、コーヒーを片手に。
「すみません、ちょっとだけのつもりで。」
ちょっと。
私の午前中は全部消えた。
警察が違反切符を切ると伝えると、彼は顔をしかめた。
「えー、9000円か。」
そして、こう言った。
「まあ、9000円なら仕方ないですね。」
その瞬間、怒りというより、冷たい何かが腹の底に落ちた。
9000円。
彼にとっては、運が悪かった日の出費。
私にとっては、
キャンセル料、準備コスト、移動調整、
そして何より信用の損失。
合計、3万円以上。
私はその場で怒鳴らなかった。
代わりに言った。
「では、損害賠償を請求します。」
彼は笑った。
「は?違反金払うんですよ?」
違反金は行政罰。
それと民事責任は別だ。
その日の夜、私は証拠を整理した。
違法駐車の写真。
警察の出動記録。
通話履歴。
キャンセルメール。
そして内容証明郵便を送った。
請求額3万円。
書留費用。
遅延損害金。
法的根拠は明確。
民法709条。
「故意または過失によって他人の権利または利益を侵害した者は、その損害を賠償する責任を負う。」
あなたは、私の営業を止めた。
それは“ちょっと”では済まない。
三日後、電話が鳴った。
「あの、本気ですか?」
声のトーンは、あの日とは違った。
「9000円払ったのに…」
それは行政罰。
あなたが私に与えた損害は別問題。
しばらく沈黙。
あの日、私が味わった沈黙よりも重い沈黙だった。
「示談でお願いできませんか?」
最初からその態度なら、ここまで来なかった。
数日後、振込があった。
3万円、全額。
短い謝罪文付きで。
失った時間は戻らない。
契約も戻らない。
でも、ひとつだけ取り戻したものがある。
“9000円で済む”という思い込みを壊したこと。
違反は9000円かもしれない。
でも、人の生活は9000円じゃ止まらない。
「ちょっとだけ」
「すぐ戻るつもりだった」
その軽さが、誰かの一日を潰す。
そして、守っている側が泣き寝入りする構造がある。
私はもう、黙らない。
違反が安いなら、
損害はきちんと請求する。
9000円で終わると思ったその瞬間から、
それは終わらせないと決めた。