朝、車に乗ろうとして私は思わず足を止めた。
フロントガラスのワイパーに、一枚の紙が挟まっていたからだ。
真っ白なコピー用紙。
差出人の名前はない。
ただ大きな文字でこう書かれていた。
「駐車場使用契約はお済ですか?」
「まだなら不法侵入になるかも?」
私は思わず笑ってしまった。
いや、契約済みだけど。
というか管理会社から案内されて停めているんだけど。
数日前、マンションの駐車場に空きが出たと連絡があり、私は普通に申し込みをした。
今まで少し離れた月極駐車場を利用していたので、近くなるなら助かる。
それくらいの感覚だった。
特別執着していたわけでもない。
だからこそ、この紙の意味が分からなかった。
私はすぐ管理会社へ連絡した。
すると担当者の声が急に重くなった。
「実は……少々確認したいことがありまして」
嫌な予感がした。
調査の結果、信じられない事実が判明した。
退職した担当者が、同じ駐車区画を複数の住人に案内していたのだ。
契約の話も。
利用開始の話も。
複数人へ伝わっていた。
しかもその担当者はすでに退職。
連絡も取れないらしい。
完全に管理会社のミスだった。
数日後、その車位を巡っている相手の住人とも話す機会があった。
五十代くらいの男性だった。
どうやら以前からその区画を狙っていたらしい。
私を見るなり言った。
「そこ、本来は私が使う予定だったんですよ」
私は苦笑した。
「それは管理会社に言ってください」
正直、私も被害者だった。
だが相手は納得できなかったようだ。
管理会社へ何度も電話を入れ。
エントランスで管理人に文句を言い。
そして最終的に、あの紙を私の車へ挟んだのだった。
その後、管理会社は住人説明を行った。
そして謝罪した。
「今回はこちらの管理ミスです」
「つきましては現在空いている区画から自由にお選びください」
その瞬間だった。
問題になっていた区画を巡り、何人かの住人がざわついた。
やはり人気の場所だったのだ。
すると例の男性が真っ先に言った。
「私は元の区画を希望します」
まるで勝利宣言だった。
ようやく手に入れた。
そんな表情をしていた。
私は特に反対しなかった。
「どうぞ」
あっさり譲った。
その瞬間、周囲は少し驚いた顔をした。
でも私には別の考えがあった。
実は説明会の前に駐車場を見て回っていた。
その時に気付いたのだ。
新しく開放された区画の中に、一か所だけ妙に条件の良い場所があることに。
私の棟の入口から一番近い。
屋根も広い。
隣との間隔も余裕がある。
荷物の出し入れもしやすい。
しかも料金は同じだった。
ところが誰もそこを見ていなかった。
みんな元の区画ばかり気にしていたからだ。
私は迷わずその区画を選んだ。
数週間後。
駐車場の利用が始まった。
例の男性は満足そうに元の区画へ車を停めていた。
私は新しい区画へ停めていた。
そしてある雨の日。
買い物帰りの私は、大きな荷物を抱えながら数十秒で自宅入口へ到着した。
ふと見ると、その男性は雨の中を遠回りして歩いていた。
その時だった。
彼が私の車位を見て、一瞬だけ立ち止まった。
そして周囲を見回した。
たぶん気付いたのだと思う。
私が選んだ場所の方が便利だったことに。
だが今さら交換はできない。
私は軽く会釈した。
何も言わなかった。
勝ち負けの話ではない。
ただ見えている情報が違っただけだ。
人は目の前のものを失いそうになると、それが一番価値のあるものに見えてしまう。
でも本当に大事なのは、
「誰が勝ったか」ではなく、
「何を手に入れたか」だった。
あの日、彼は欲しかった車位を手に入れた。
私はもっと便利な車位を手に入れた。
だから最後まで、何も言わなかったのである。
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]