雨の日だった。
予定より少し早く、私はタイムズカーの駐車場に着いた。
傘を差して、アプリの画面を確認する。
予約した車は目の前にあるはずだった。
でも、そこにあったのは、車というより――。
黒いビニールに包まれた、謎の物体だった。
最初、私は目を疑った。
フロントガラスも、ボンネットも、横の窓も、ぐるりとシートで覆われている。
しかも、緑色のテープでしっかり留められていた。
「え、これ……乗るやつだよね?」
思わず声が出た。
足元には黄色い看板が倒れていた。
そこにははっきりと「タイムズカーシェア専用」と書いてある。
専用。
つまり、この場所に停まっているこの車こそ、私が借りる予定の車だった。
いや、専用なのは分かった。
でも、これはもう“利用開始”ではなく“封印”である。
アプリを見る。
出発可能。
画面は何事もなかったように、明るくそう表示していた。
私は試しに解錠ボタンを押した。
ピッ。
車内から小さな音がした。
生きている。
だが、ドアノブはビニールの下。
ミラーもビニールの下。
ワイパーもビニールの下。
この状態でどうやって運転しろというのか。
雨の中、私はしばらく車の前に立ち尽くした。
通りかかった人が、ちらっとこちらを見た。
その目が言っていた。
「あの人、あれに乗るの?」
違います。
私も乗れるとは思っていません。
すぐにサポートへ電話した。
事情を説明すると、担当の人は丁寧な声で言った。
「現在、システム上はご利用可能な車両となっております」
私は黒いビニールに包まれた車を見た。
そして、もう一度アプリを見た。
確かに利用可能。
でも、人類には不可能。
「現地の写真を送っていただけますか?」
言われるままに写真を撮った。
正面から一枚。
横から一枚。
倒れた看板も一枚。
送信して数分後、電話口の空気が変わった。
「あの……これは、確かに通常利用できる状態ではございません」
でしょうね。
たぶん小学生でも分かる。
私はその場で代替車を探してもらうことになった。
けれど近隣の車は満車。
予定には遅れる。
雨は強くなる。
靴の中まで冷えてくる。
その間にも、アプリは堂々と「出発できます」と表示し続けていた。
私はだんだん腹が立つより、笑えてきた。
ここまで来ると、もはや現代アートだ。
「使えるはずの車」と「絶対に使えない現実」。
その落差を、黄色い専用看板が地面で静かに説明している。
しばらくして、近くの業者らしき男性がやって来た。
彼は車を見るなり、眉をひそめた。
「これ、なんで貸出状態になってるんですかね……」
私が聞きたい。
彼はビニールの端を確認しながら、申し訳なさそうに言った。
「補修か清掃か、何かの作業中扱いになっているはずなんですが」
つまり、車は“使わせる状態”ではなかった。
なのに、システムの上では元気に営業中。
私はようやく理解した。
この事件の怖いところは、ビニールに包まれていることではない。
誰かが一目見れば分かる異常が、予約画面では何も起きていないことになっている。
現場では封印。
スマホでは利用可能。
この温度差が一番おそろしい。
結局、予約はキャンセル扱いになり、料金は発生しないことになった。
代替手段で移動した私は、予定には少し遅れた。
でも、妙に忘れられない朝になった。
車を借りに行っただけなのに、現地で出迎えてくれたのは、黒いビニールに包まれた無言のレンタカー。
しかもアプリは平然と「どうぞ出発してください」。
いや、出発する前に、まず発掘から始めないといけない。
今後、カーシェアを予約するときは、空き状況だけじゃなくて祈ることにした。
どうか車が、ちゃんと車の姿をしていますように。