扉が閉まる直前、車いすの男の子とお母さんが乗ってきた。背中に小さなリュック、手は膝の上でぎゅっと握られていて、目だけが周りを気にしている。お母さんは何度も「すみません」と頭を下げながら、優先スペースの端に車いすを寄せた。邪魔にならないように、誰の通路も塞がないように。見ていて分かる。「迷惑をかけないように」じゃなくて、「迷惑だと言われないように」必死なんだ。
その瞬間だった。
後ろから、低い声が刺さる。
「おい。邪魔だから畳め。いい歳して座るなよ」
え? 畳め? 座るな?
一瞬、頭が理解を拒んだ。車いすを、どう畳めっていうの。
声の主は、いかにも「俺は常連だ」と言いたげな年配の男。腕を組んで、いつも立っている場所が取られたことが許せない顔をしていた。目は男の子じゃなくて、“場所”を見ている。人じゃなくて、“自分の権利”を見ている。
お母さんが小さく息を吸って、言った。
「すみません、うちの子、歩けなくて……」
その言葉に、男はさらに火がついたみたいに顔を歪めた。
「言い訳するな。ベビーカーじゃねぇんだぞ? みんな立ってんだ。お前らだけ特別か?」
車内の空気が、スッと冷えた。
誰かのイヤホンの音漏れだけがやけに大きく聞こえて、みんなが一斉に“見えないふり”を始めたのが分かった。
そして、男の子。
さっきまで周りを気にしていた目が、床に落ちた。肩が小さく震えて、唇を噛んで、泣くのを必死で堪えている。たぶん、もう慣れているんだ。こういう言葉に。こういう視線に。慣れたくなんてないのに。
私は、喉の奥が熱くなった。
「大人なら止めろよ」と、心の中の何かが叫んだ。
でも、足がすぐには動かなかった。
怖いからじゃない。
こういう時、声を上げると、逆に状況が悪化することがある。相手が興奮して、矛先が母子から自分に移り、さらに大きな騒ぎになって——結果として、子どもがもっと傷つく。
そんな光景を想像してしまって、私は一瞬だけ躊躇した。
その一瞬が、男の子の涙を一滴、引き出した。
ぽろっと落ちた涙を見た瞬間、私は決めた。
「この人の“いつもの立ち位置”より、この子の心の方が大事だ。」
私は立ち上がって、ドア横の機器に手を伸ばした。
車内にある、あの小さな「非常通話」ボタン。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください