「あなたの子ども、万引きしましたよね?」
その一言で、店内の空気が一瞬止まった。
たった3個、198円のスポンジだった。
それだけの話だったはずなのに。
セルフレジで会計を済ませ、自分でエコバッグに入れようとしたとき、袋入りのスポンジを落としてしまった。
透明の袋の端が少し黒く擦れた。
「すみません、落としてしまったので交換していただけますか?」
そう言うと、若い男性店員はにこやかに答えた。
「お待ちくださいね。」
その笑顔に、疑いはなかった。
彼は私の手からスポンジを受け取り、売り場の方へ小走りで向かった。
私は、ああ、ちゃんとした人だな、と思った。
数十秒後、彼は戻ってきた。
「こちらになります。」
差し出された袋。
私は一瞬で分かった。
同じものだ。
あの黒い擦れ跡。
自分で落とした痕は、見間違えるはずがない。
「これ、さっきのですよね?」
私が言うと、彼の表情が消えた。
「新品です。」
「違います。さっき落としたの、私ですから。」
周囲の視線が集まり始めた。
彼は声を強めた。
「疑うんですか?」
疑っているのは、どっちだ。
私はただ、正直に言っただけだった。
すると彼は、急に私の子どもを指差した。
「あなたの子ども、万引きしましたよね?」
空気が凍った。
は?
子どもの手にあるのは、家から持ってきた小さなお菓子。
透明のパッケージ。
どこからどう見ても店の商品ではない。
「今なら認めれば穏便に済みますよ。」
店員の声が、低く、硬くなる。
私は震えた。怒りで。
「防犯カメラ、確認してください。」
店の奥から、ちょうど戻ってきたらしい店主が顔を出した。
「どうしました?」
私は事情を説明した。
「監視カメラで、全部確認しましょう。
」
彼は少し迷いながらも、頷いた。
店内は妙に静かだった。
バックヤードのモニターに映像が映る。
セルフレジ。
私。
子ども。
スポンジ。
落とした瞬間も、はっきり映っている。
子どもは何も取っていない。
「ほら、何も…」
そう言いかけたその時。
店主の動きが止まった。
画面が切り替わった。
売り場の奥。
昼間。
店主がいない時間帯。
棚の影で。
彼と、奥さん。
誰が見ても言い逃れできない距離だった。
抱き合い、顔が重なり、手が腰に回る。
言葉はいらなかった。
店主の顔色が変わる。
リモコンを持つ手が震える。
次の瞬間、彼は椅子にゆっくり腰を落とした。
店員の顔は真っ青だった。
さっきまでの強気は、跡形もない。
店内の空気が、重く沈む。
私はしばらく何も言わなかった。
怒りも、もうなかった。
ただ、静かに口を開いた。
「人を疑う前に、自分の足元を見た方がいいですよ。」
それだけだった。
誰も反論しなかった。
店主はうつむいたまま。
店員は目を合わせられない。
私は子どもの手を握り、店を出た。
スポンジは買わなかった。
たった198円。
でも、あの一言がなければ、
あの嘘がなければ、
何も起きなかった。
私は誰かを壊したかったわけじゃない。
ただ、子どもを守りたかっただけだ。
人は、軽く扱える相手を選ぶ。
でも時々、
その相手が黙らなかったとき、
崩れるのは、嘘を積み重ねていた側だ。
あの日以来、
私はもう、理不尽に笑ってやり過ごさない。
静かに、
確実に、
記録を残す。
それだけでいい。
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