夜、仕事から帰ってきたのはいつもより遅かった。
マンションの廊下は静かで、
蛍光灯の白い光だけが、やけに冷たく感じる。
エレベーターを降りて、
いつものように郵便受けの前を通る。
そのときだった。
掲示板に貼られた一枚の紙が、目に入った。
「夜間外出の注意」
管理会社の貼り紙らしい。
まあ、よくあるやつだ。
ゴミの出し方とか、騒音注意とか。
私は何気なく足を止めた。
だが。
最初の数行を読んだ瞬間、
妙な違和感が走った。
最近、不審者の目撃が相次いでいます。
午前1時から3時の間は、
不要不急の外出を控えてください。
「……ん?」
ここまでは、まだ普通だった。
でも、その下の文章を読んだ瞬間。
背中に冷たいものが走った。
当該時間帯に外出する場合は、
決して一人では行動せず、
複数で行動してください。
私は思わず周囲を見回した。
夜の廊下。
静まり返っている。
遠くでエレベーターが動く音だけが響く。
「……なんだこれ」
貼り紙に目を戻す。
そして、次の一文を読んだ。
「チッチッ」と舌を鳴らし
女性に声をかける人物を見かけた場合、
決してその声に応じず、
速やかに屋内へ避難してください。
「……は?」
思わず声が出た。
チッチッ?
舌を鳴らす?
夜中に?
女性を呼ぶ?
私は貼り紙をもう一度読み返す。
文章は真面目だ。
管理会社の正式な注意書き。
つまり。
実際に起きている。
夜中。
このマンション周辺で。
誰かが。
「チッチッ」と舌を鳴らして
女性を呼んでいる。
……。
怖すぎるだろ。
私は思わず笑ってしまった。
笑うしかない。
でも同時に、
ぞわぞわとした恐怖が胸に広がる。
頭の中で映像が浮かぶ。
真夜中。
午前2時。
人気のない道路。
マンションの前。
暗い影の中で。
誰かが。
「チッチッ」
……。
やめろ。
想像するな。
私は慌てて貼り紙の続きを読む。
女性の皆様は特に注意してください。
もし声をかけられた場合、
すぐに建物内に避難するか、
近くの部屋へ助けを求めてください。
「いやいやいや…」
私は掲示板の前で立ち尽くした。
ここ、普通の住宅街だ。
都内でもない。
繁華街でもない。
静かなマンション。
なのに。
深夜1時〜3時。
舌を鳴らして女性を呼ぶ人物。
しかも。
管理会社が
正式に注意喚起するレベル。
つまり。
何回も目撃されている。
私はふと考えた。
これ。
人間なのか?
それとも。
……。
いやいや。
さすがに幽霊はない。
でも。
この説明。
完全にホラー映画だ。
私は掲示板から一歩下がる。
廊下の奥を見る。
誰もいない。
でも。
静かすぎる。
さっきまで気にならなかった蛍光灯の音が、
妙に大きく聞こえる。
その瞬間。
廊下の奥で。
何かがカタッと鳴った。
「っ…!」
心臓が跳ねる。
思わず振り向く。
……。
ただの自動販売機だった。
私は深く息を吐いた。
「ビビりすぎだろ俺…」
でも。
もし。
この時間に。
廊下の向こうから。
「チッチッ」
なんて音が聞こえたら。
私は間違いなく。
全力で部屋に逃げる。
その夜。
部屋に戻ってからも、
私は何度も貼り紙のことを思い出した。
深夜1時〜3時。
舌を鳴らす不審者。
女性を呼ぶ声。
……。
これ。
幽霊なのか。
それとも。
人間なのか。
どっちにしても。
結論は一つだ。
このマンション。
深夜は
絶対外に出ない方がいい。